普仏戦争とパリ条約改正
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「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「普仏戦争とパリ条約改正」の解説
ロシアがアジア進出に力を入れている間にプロイセンはオーストリアを凌駕してドイツ連邦内の覇権を確立していた。1866年の普墺戦争でそれが決定的となった。この戦争でロシアはプロイセンに好意的な中立の立場をとっている。 普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を創設したビスマルクは続いてフランスと戦争することでドイツ・ナショナリズムを煽り、南ドイツ諸国の取り込みを図ろうと狙い、スペイン王位継承問題を利用して1870年に普仏戦争へ持ち込んだ。皇帝アレクサンドル2世とゴルチャコフは、パリ条約を改正するチャンスが来たと見て、ビスマルクに「もしオーストリアがフランス側で参戦したならロシアはプロイセンを支援する」という保証を与えた。普仏戦争はプロイセンの勝利に終わり、フランスは第二帝政が崩壊して第三共和政へ移行し、一方ドイツでは南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加してプロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝としたドイツ帝国が樹立された。 ゴルチャコフはここぞとばかりに「ゴルチャコフ回状」を出してパリ条約破棄を各国に通告した。イギリスがそれに抗議して1871年にロンドンで国際会議が開かれるも、今やヨーロッパで最も巨大な発言力を持つプロイセン=ドイツがロシアの立場を支持したことでパリ条約の破棄が認められた。こうしてロシアは再び黒海に艦隊を配置することができるようになった。強力なドイツ帝国の誕生はロシアにとっても脅威であったが、こうした経緯やフランスがイデオロギー的に相いれない共和政体になったこともあって、ロシア皇帝はビスマルクの誘いに乗ってドイツ帝国皇帝、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝とともに君主政国家の君主の盟約「三帝同盟」を結ぶこととなった。 だが同時にロシアはこれ以上のドイツの増強とフランスの弱体化を許すつもりはなかった。それが顕著となったのは『ポスト』紙事件(ドイツ語版、フランス語版)だった。1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙がフランスがドイツへの復讐を企んで軍備増強していると説く論説を載せたことでドイツ国内でフランスへの予防戦争(ドイツ語版、フランス語版)を求める世論が強まり、ビスマルクはこれを機にフランスに孤立している事を思い知らせようと企図した。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはドイツではなくフランスを支持し、ドイツの対仏強硬姿勢を取り下げさせたのである。アレクサンドル2世とゴルチャコフは自らベルリンを訪問して独仏関係の調停に乗り出している。 この件でゴルチャコフは独仏戦争が回避されたのは自分のおかげと吹聴するようになった。ビスマルクはゴルチャコフの態度が許せず、回顧録に「ゴルチャコフは突然友人の肩の上に背後から飛び乗って、友人を犠牲にしてその肩の上でサーカスを始めた」と書いている。
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