普仏戦争とパリ条約改正とは? わかりやすく解説

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普仏戦争とパリ条約改正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)

アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「普仏戦争とパリ条約改正」の解説

ロシアアジア進出力を入れている間にプロイセンオーストリア凌駕してドイツ連邦内の覇権確立していた。1866年普墺戦争でそれが決定的となった。この戦争ロシアプロイセン好意的な中立立場とっている。 普墺戦争勝利北ドイツ連邦創設したビスマルク続いてフランス戦争することでドイツ・ナショナリズム煽り南ドイツ諸国取り込み図ろう狙いスペイン王位継承問題利用して1870年普仏戦争持ち込んだ皇帝アレクサンドル2世ゴルチャコフは、パリ条約改正するチャンスが来たと見てビスマルクに「もしオーストリアフランス側参戦したならロシアプロイセン支援する」という保証与えた普仏戦争プロイセン勝利終わりフランス第二帝政崩壊して第三共和政移行し一方ドイツでは南ドイツ諸国北ドイツ連邦参加してプロイセン王ヴィルヘルム1世皇帝としたドイツ帝国樹立された。 ゴルチャコフここぞとばかりにゴルチャコフ回状」を出してパリ条約破棄各国通告したイギリスがそれに抗議して1871年ロンドン国際会議開かれるも、今やヨーロッパで最も巨大な発言力を持つプロイセンドイツロシアの立場支持したことでパリ条約破棄認められた。こうしてロシアは再び黒海艦隊配置することができるようになった強力なドイツ帝国誕生ロシアにとっても脅威であったが、こうした経緯フランスイデオロギー的に相いれない共和政体になったこともあって、ロシア皇帝ビスマルク誘い乗ってドイツ帝国皇帝オーストリア・ハンガリー帝国皇帝とともに君主政国家君主盟約三帝同盟」を結ぶこととなった。 だが同時にロシアこれ以上ドイツ増強フランス弱体化を許すつもりはなかった。それが顕著となったのは『ポスト』紙事件ドイツ語版フランス語版)だった。1875年4月8日ドイツ政府新聞ポスト』紙がフランスドイツへ復讐企んで軍備増強していると説く論説載せたことでドイツ国内フランスへ予防戦争ドイツ語版フランス語版)を求め世論強まりビスマルクこれを機にフランス孤立している事を思い知らせようと企図した。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズ巧み外交もあってイギリスロシアドイツではなくフランス支持しドイツの対仏強硬姿勢取り下げさせたのであるアレクサンドル2世ゴルチャコフは自らベルリン訪問して独仏関係調停乗り出している。 この件でゴルチャコフ独仏戦争回避されたのは自分のおかげと吹聴するようになったビスマルクゴルチャコフ態度許せず、回顧録に「ゴルチャコフは突然友人の肩の上背後から飛び乗って友人犠牲にしてその肩の上サーカス始めたと書いている。

※この「普仏戦争とパリ条約改正」の解説は、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の解説の一部です。
「普仏戦争とパリ条約改正」を含む「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事については、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の概要を参照ください。

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