普仏戦争とドイツ帝国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「普仏戦争とドイツ帝国の成立」の解説
1866年に7週間で終わった普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でプロイセン王国が勝利したことによってドイツ連邦は解体され、翌1867年にオーストリアと南ドイツを除いた北ドイツ連邦が成立した。 ケーニヒスベルク歴史学教授フェリクス・ダーンはイタリア統一直後に小説「ローマとの闘争」(1867)をイタリア化からのチロルの防衛を目的として書いた。この小説では中世のゴート人によるイタリア遠征を題材に、誠実で情潔なゲルマン人に対して、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる。 1869年、教権派のグージュノー・デ・ムソーが著書『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリスト教諸民族のユダヤ化』において、世界イスラリエット同盟、儀式殺人、フリーメイソンのユダヤ人などの害悪を論じ、反キリスト教の陰謀を企て、各地で革命の種を蒔いているとする一方で、ユダヤ人の血には価値があり、高貴な民族であり、神秘的な生命力を持っていると称賛した。グージュノーは、野蛮なタルムードは憎悪と横領の教えであり、タルムードが破棄されるまではユダヤ人は非社会的な存在であり続けるが、それに先立ち、これまでにないほどの苛酷な試練が待ち受けている、そしてユダヤ人は「父の家」にふたたび加わり「永遠に選ばれた民、諸々の民のなかにあってもっとも高貴にしてもっとも威厳に満ちた民」として祝福されると論じた。グージュノーは、教皇ピウス9世から称賛され、教皇庁騎士号を与えられた。 1871年、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(正式名ドイツ国 Deutsches Reich)が成立した。ルター派市民は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の比喩で「ドイツ国民の神聖福音主義帝国」として歓迎した。ドイツでゲルマンの人種的優越性が主張されるようになったのはナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が1806年に崩壊したためであったが、フランスの反ユダヤ主義は普仏戦争での敗北で高まった。ルネ・ラグランジュは『フィガロ』でプロシア軍のパリ凱旋について、軍人の後を広いふちの帽子をかぶり、眼鏡をした長い髪の集団が行進し、これは間違いなくドイツ軍に従軍するユダヤ人金融業者であったとした。ドリュモンもこの行進を目撃していた。 プラハ大学教授アウグスト・ローリング神父は『タルムードのユダヤ人』(1871年)でユダヤ人の儀式殺人について書いた。これはヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガーの『暴かれたユダヤ教』(1700年)を底本にしたものだったが、1885年、ラビのヨーゼフ・ザームエル・ブロッホから名誉毀損裁判を起こされ教職を辞した。しかし、ローリングの著作はヨーロッパのカトリック界で支持され、フランスでは1889年に翻訳三種が出版された。また、ローリング神父の著書を読んでキリスト教に改宗するユダヤ人も多くいた。 ドイツ語圏では、1867年から1914年までに儀式殺人訴訟が12件繰り返された。1899年、ボヘミアの儀式殺人訴訟では、レーオポルト・ヒルスナーが有罪となったが、これ以外の儀式殺人訴訟はすべて被告は無罪であった。ヒルスナー事件では、プラハ大学の哲学教授マサリクが弁護して、儀式殺人は退けられるが、ヒルスナーは19歳の娘を殺害したとして死刑判決を受けたが恩赦された。 19世紀後半期ドイツのマスメディアでは、自由主義者エルンスト・カイルが1853年に啓蒙的・進歩主義的な家庭雑誌『ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』を創刊し、1848年革命で目指されたドイツ統一を主張する「国民自由主義」の立場を展開し、1848年の3月革命で失敗した市民が政治や社会から目を背けて家庭に心の避難場所を求めていた時代に発行部数を伸ばした。同誌の専属作家E.マルリットは1873年の「荒野のプリンセス」でユダヤ人の祖母を排除しようとしたプロテスタントを批判して寛容をテーマとした。普仏戦争期には従軍記事も多く掲載し「全ドイツ人の一体感が呼び起こされた」という記事も掲載された。1873年の文化闘争でカトリックやイエズス会を批判し、1874年には「ユダヤ人は自分では働かず、他人の知的、肉体労働による生産物を搾取している。この異族はドイツ国民を支配し、その骨の髄までしゃぶりつくしている」という記事を掲載した。すでにカイルら3月革命の自由主義者はエリート層となり、既得権を守ろうという意識が働いていた。 1870年代当時は、プロテスタントの『十字架新聞』とカトリック系の『ゲルマーニア』が二大新聞であり、『ゲルマーニア』はユダヤ人迫害とは宗教上のものではなく異民族の侵入に対するゲルマン民族の抗議であると主張したが、反ユダヤ運動には加担しなかった。またビスマルクの内政を批判した。一方で、『十字架新聞』は反ユダヤ主義記事の掲載を続け、同紙に掲載されたヘルマン・ゲートシュの幻想小説は『シオン賢者の議定書』に影響を与えた。
※この「普仏戦争とドイツ帝国の成立」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「普仏戦争とドイツ帝国の成立」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- 普仏戦争とドイツ帝国の成立のページへのリンク