普仏戦争と気球部隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:14 UTC 版)
1870年から1871年の普仏戦争とプロイセン軍のパリ包囲戦に際して、ナダールは軍事用気球を建造して気球部隊を組織した。ナダールはモンマルトルに拠点を置き、「ジョルジュ・サンド号」(le George-Sand)、「アルマン・バルベス号」(l’Armand-Barbès)、「ルイ・ブラン号」(le Louis-Blanc)と名づけた3機の気球で、パリに迫る敵の偵察と撮影、地図作成、手紙の輸送などの作戦に従事した。当時の内務大臣で後の第三共和制成立に重要な役割を果たした愛国者レオン・ガンベタは、パリ包囲後の1870年10月7日にアルマン・バルベス号でパリを脱出し、トゥールに設置されていた国防政府派遣部に合流して指導者となった。 1870年9月から1871年1月までの間に、ゴダール兄弟がリヨン駅で、ナダールがパリ北駅で、それぞれ臨時の軽気球工場を運営した。66機の気球が建造され、包囲され電信ケーブルも切断されたパリから各地への11トン・250万通の郵便の輸送に従事した。これが世界最初の飛行機械の大量生産であり、世界最初の航空郵便でもあった。しかし軽気球の飛行は風任せの飛行でありどこに着地するかは予測できず、中には海に落ちて行方不明になったもの、プロイセン軍占領地域に着地して没収されたもの、ノルウェーにまで飛んで行き、期せずして当時の飛行最長記録を打ち立てたものもあった。地方からパリ市内に向けて気球を正確に着地させることは不可能だったため、気球はすべてパリ発の一方通行で、地方からの返信にはもっぱら伝書鳩が用いられた。
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