明治維新から終戦まで・住友財閥の中核とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 明治維新から終戦まで・住友財閥の中核の意味・解説 

明治維新から終戦まで・住友財閥の中核

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 00:33 UTC 版)

住友銀行」の記事における「明治維新から終戦まで・住友財閥の中核」の解説

1875年金融事業は並合業(自己資金による物品抵当金融事業)として再開、並合業は年々業容拡大していった。1890年銀行条令発布されたのを機に1895年5月広島県尾道市行われた住友家重役会議本格的な銀行業への進出決定同年11月1日住友本店銀行部として、住友吉左衛門個人経営による資本金100万円の住友銀行本店大阪市中之島)が開業したその後初めての支店がその尾道市開設されており、尾道支店として現存している。 1912年2月23日株式会社改組し、資本金1500万円株式会社住友銀行設立された(社長住友吉左衛門常務中田錦吉)。1912年株式会社六十一銀行買収1919年末には預金残高3億4836万円貸金残高2億6156万円と、第一銀行三井銀行次いで全国第3位規模となった一方、すでに外国業務手掛けていたが、第一次世界大戦勃発に伴う輸出急増在外邦人内地仕送り増加から、海外拠点開設検討された。かくして1916年市中銀行トップ切ってサンフランシスコ支店およびハワイ住友銀行開設、さらに同年上海ボンベイ1917年漢口1918年シアトルロンドン、そしてニューヨーク拠点開設普通銀行海外進出先駆けとなった。さらに、1924年にはロサンゼルス支店1925年には加州住友銀行設立する。しかし、これらの海外拠点は、その後第二次世界大戦一時縮小余儀なくされるその後第一次世界大戦後復興景気反動から、1920年から1922年と金融不安が日本経済襲い同行その影響から、預金貸出金とも減少続いた。さらに、1927年片岡直温蔵相失言から、昭和金融恐慌起こり多く銀行破綻したが、一方預金信用度の高い財閥系銀行急速に集中し住友銀行においてもその預金額は急増著しく1929年末には普通銀行首位占めるに至るなど、業容順調に拡大していった。

※この「明治維新から終戦まで・住友財閥の中核」の解説は、「住友銀行」の解説の一部です。
「明治維新から終戦まで・住友財閥の中核」を含む「住友銀行」の記事については、「住友銀行」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明治維新から終戦まで・住友財閥の中核」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明治維新から終戦まで・住友財閥の中核」の関連用語

1
10% |||||

明治維新から終戦まで・住友財閥の中核のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明治維新から終戦まで・住友財閥の中核のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの住友銀行 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS