モザッファロッディーン・シャー
モザッファロッディーン・シャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)
「ガージャール朝」の記事における「モザッファロッディーン・シャー」の解説
1901年にイランで石油が発見されると、イラン経済はますますイギリスの従属下へと転落していった。いわゆる「ダースィー利権(英語版)」(英: D'Arcy Concession)とアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)が創設された。 イラン国内は、ガージャール朝変革の待望が起きた。その際に、日露戦争で、大国ロシアが日本に負けるという事実、また、ロシアのロシア第一革命を支えに、イラン人の改革意識は高まった。1905年12月、テヘランのモスクに、聖職者とバーザール商人が集合し、「公正の家」の設立を要求することを契機に、イラン立憲革命が始まった。第5代のモザッファロッディーン・シャー(在位1896年-1907年)はいったんは彼らの要求を受け入れたが、その約束を履行する姿勢を採らなかったために、アガー・サイイェド・ジャマーロッディーン・エスファハーニー、シェイフ・モハンマド・ヴァーエズといった説教師がテヘランから追放される事態になると、翌年の7月には14,000人あまりがイギリス公使館に避難(バスト)する事態へと発展した。その結果、シャーは、議会の開設要求に応じざるを得なくなった。同年12月にはベルギー憲法を模した形で、イランで初めての憲法が起草された。
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