イスラム諸国の宦官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:07 UTC 版)
一夫多妻制であったイスラーム諸国ではオリエントの伝統を受け継いで宦官が用いられた。特にオスマン帝国では宦官は後宮(ハレム)を取り仕切り、陰の実力者として振舞い、政治の実権を握ることもしばしばあった。 イスラム諸国の特色としては、コーランに記載されている教義上の去勢禁止規定を回避するため、イスラム教徒以外の男性(多くは少年)を去勢して宦官とするのが原則であり、外国人である黒人や白人の宦官が多く採用されていた。彼らの多くは、戦争で捕虜となるか、奴隷として売られてきて、宦官にされたものである。ガージャール朝の創始者アーガー・モハンマド・シャーも幼年期に捕虜として去勢されていたが、後に脱走を果たして勢力の再結成に成功し、宦官として王朝を開いた一つの例である。当然ながら彼に子供はおらず、死後は甥であるファトフ・アリー・シャーが帝位を継いだ。 イスラム諸国の宦官の去勢の方法は、男性器全てを除去する完全去勢と、陰茎のみ、または両方の睾丸のみを切除する不完全去勢の2種類があり、去勢奴隷として売られる場合は前者の方が、高価で取引された。なお、イスラーム世界においてもしばしば男色が行われており、宦官が君主ら主人の男色相手をつとめる場合も少なくなかった。
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