イスラーム運動
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 09:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動イスラーム運動(イスラム運動)という用語は、一般的にイスラム主義またはイスラム教、あるいはいくつかの宗教的または政治的組織のいずれかを指すことができる。
- イスラーム運動(イスラエル)
- 中央アジア・イスラム運動
- ウズベキスタン・イスラム運動
- タジキスタン・イスラム運動
- 東トルキスタンイスラム運動
- トルキスタン・イスラム運動
- インド学生イスラム運動
解説
その一つは、民族の違いを乗りこえてイスラーム教徒であることをよりどころにして新しい国家を目指す運動であり、宗教運動の面が強い運動。
それに対して、アラブ人の文化の復興を通じて民族的な自覚を取り戻し、アラブ人国家の自立を目指していくアラブ文化復興運動(アラブの覚醒)であり、アラブ主義ともいわれる潮流があった。
また、同じアラブ人でも、国家の枠組みを重視して、民族や宗教という理念よりも、西欧国際社会に範を採った議会制を実現しようという、国民主義の潮流もあった。
近代以降のイスラーム世界は、この三つの潮流が複雑に絡み合いながら、互いに影響し合い、現在まで続いているということができる。それらの潮流の中から、現在の世界で最も強いインパクトの一つとなっているイスラーム原理主義が生まれてくることになる。
脚注
イスラム運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 07:25 UTC 版)
「マリ北部紛争 (2012年)」の記事における「イスラム運動」の解説
3月11日、フランス通信社は幾つかの情報源に基づいた報道で、「『アンサール・アッ=ディーン』と名乗るイスラム運動があり、1990年代のマリでのトゥアレグ反乱を起こした旧団体によって結成され、イヤド・アグ・ガリー主導のもと、マリ北東に駐屯するマリ軍に対してトゥアレグ反乱軍として戦っている」。AQIM戦闘員の細胞を率いるアブデルクリム・ターレブ(Abdelkrim Taleb)は批難する。「AQIMは人道支援をしていたフランス人ミシェル・ジェルマノ(Michel Germaneau)を人質にしたが、2010年7月に処刑を発表する」アンサール・アッ=ディーンの中でも活発な一派の仕業である。マリにおけるシャリーアの普及のためにイスラム運動に傾倒してゆく。3月19日にMNLAは公式発表し「我々が戦う共和国は民主主義と世俗主義の原則の基づいている。」としてアンサール・アッ=ディーンとの共闘関係を解消する。 2013年1月、アンサール・アッ=ディーン内で分離した一派は新たにアザワド・イスラム運動(fr:Mouvement islamique de l'Azawad)を創設している。 マリ人説教師シェリフ・オスマン・マダニ・ハイダラ(Chérif Ousmane Madani Haïdara)は、寛容を説きイヤド・アグ・ガリーがすすめるシャリーアと原理主義運動を拒否し、バマコに拠点を置く同名の組織(アンサール・アッ=ディーン)とは区別すべきと説教した。アンサール・アッ=ディーンはイスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構(AQIM)と共闘関係を結んだ。欧米人の拉致をしたグループの指導者はイヤド・アグ・ガリーによってガオに招待された。他に二つの原理主義グループがマリ北部に存在しており、AQIMの分派グループである西アフリカのタウヒードと聖戦運動(英語版)(MOJWA)はガオにあるアルジェリア領事館の外交官を拉致している。ナイジェリアからやって来たボコ・ハラムは戦闘員約100人をガオに駐在させている。
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