対インドネシア独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:35 UTC 版)
「ダウド・ブルエ」の記事における「対インドネシア独立運動」の解説
1947年、アチェの武装勢力とインドネシア国軍の仲介役としての役割を期待され少将に任官し、アチェ、ランカット、タナ・カロの軍政知事に任命された。翌1948年にはアチェ州知事に選出され、同時にスマトラ第10師団司令官に任命された。同年、インドネシア独立戦争で劣勢となっていたスカルノがアチェに避難した際に面会し、協力する見返りとしてアチェをシャリーアに基く自治州にするように要請した。 1949年12月17日、インドネシア独立に伴いアチェ州が設置されるが、1950年8月に廃止され北スマトラ州に編入されてしまう。インドネシアへの反発が強まる中、ダウド・ブルエは1952年に州知事を解任されジャカルタに異動となるが、アチェからの隔離が目的だと知るとアチェに戻りインドネシアへの反乱を計画する。 1953年9月21日、インドネシアからの独立を目指していたダルル・イスラム運動(英語版)の掲げる「インドネシア・イスラム国」への参加を表明し、ハサン・サレーら国軍将校と共に武力闘争を開始する。ダルル・イスラム運動が劣勢になった1955年9月21日には「インドネシア・イスラム国アチェ構成国」の設立を宣言した。スカルノ政権は反乱を鎮めるため、1956年にアチェ州を復活させ、1958年にはハサン・サレーと和平を結び、アチェに高度の自治を認める特別自治州を設置した。しかし、ダウド・ブルエは抵抗を続け、1960年にダルル・イスラム運動から分離し「インドネシア統一共和国政府」に加わるが、1961年にスカルノ政権によって「インドネシア統一共和国政府」が鎮圧されたため、「アチェ・イスラム共和国」として再び独立を宣言した。 1962年5月6日、スカルノ政権からシャリーアに基くアチェの自治および自身の反乱を不問とする言質を得たことを受け、「アチェ・イスラム共和国」を解散し国軍に投降した。ダウド・ブルエはその後、アチェへの影響力を危険視したインドネシア政府により、1973年に客人としてジャカルタに移送された。
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