対イタリア関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 00:14 UTC 版)
「ユーゴスラビア王国」の記事における「対イタリア関係」の解説
イタリア王国はユーゴスラビア王国に対する領土的野心を持っていた。イタリアとユーゴスラビアの前身であるセルビア王国およびスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国との関係は、第一次世界大戦時に悪化し、敵対関係となった。イタリアはヴェネツィア共和国の領土(スタート・ダ・マール)であったダルマチアの領有を主張しており、イタリアの政治家とユーゴスラビア諸地域の政治家は、ダルマチアをめぐって対立した。1918年11月1日、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国がオーストリアから鹵獲した戦艦SMSヴィリブス・ウニーティス(SMS Viribus Unitis)をイタリアが撃沈したことにより、緊張関係は現実の衝突へと発展した。イタリアは対ユーゴスラビアで利害の一致するアルバニア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアと協力関係を結び、この関係は1924年から1927年まで続いた。 1925年、イタリアのファシスト指導者ベニート・ムッソリーニはユーゴスラビアに対して開戦の脅しをし、その後イタリアとユーゴスラビア政府は、イタリア人のダルマチアへの無条件の移動を認めるネットゥーノ条約を結んだ。ユーゴスラビア人たちは、この動きをイタリアによるダルマチア植民地化への降伏とみなし、反対した。アドリア海東岸のイタリアの飛び地ザーラ(ザダル)では、イタリアの退役軍人協会がユーゴスラビア人を「豚」とする反ユーゴスラビア曲を叫び、同協会がイタリアのダルマチア領有を主張したことから、ザーラにおけるイタリア人とユーゴスラビア人の政治的状況は敵対的となった。これらの動きや態度は、ユーゴスラビア人の間にイタリアに対する怒りをもたらし、1928年には大規模な反イタリア抗議行動が展開され、「ムッソリーニを引きずりおろせ!」「ファシズムに死を!」、そして「ネットゥーノ条約を破棄せよ!」「アレクサンダル国王万歳!」などと叫び、ユーゴスラビア政府の態度や、ユーゴスラビア議会での与野党間の暴力を非難した。これに引き続いて、ザグレブやドゥブロヴニク、スプリトなどで、ユーゴスラビア人らがイタリア領事館を襲撃し、ムッソリーニの肖像画を焼き捨てる、イタリア国旗を領事館から引き降ろして燃やすなどの行動が起こった。 1927年、イギリスおよびフランスの協力の下、イタリアは反ユーゴスラビア同盟から撤退した。イタリアのファシスト指導者ベニート・ムッソリーニは、アンテ・パヴェリッチ率いるクロアチアの極右民族主義勢力ウスタシャを受け入れてイタリアに住まわせ、対ユーゴスラビア戦争に備えて軍事訓練の場を提供した。ハンガリーもまた同様のウスタシャの軍事訓練施設を受け入れた。ムッソリーニはパヴェリッチに対し、ローマに住むことを認めた。
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