対イングランド戦争とは? わかりやすく解説

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対イングランド戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)

清教徒革命」の記事における「対イングランド戦争」の解説

強硬派勝利した盟約軍は、イングランド政府長老制実施約束履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ政府、特に政府軍反発招き両者の関係険悪になってきていた。1647年12月ハミルトン公ジェイムズ・ハミルトン盟約派穏健派チャールズ1世和解契約を結び、翌1648年7月ハミルトン公率い盟約軍(エンゲージャーズ(英語版))はイングランド攻め込んで第二次イングランド内戦起こしたが、8月プレストンの戦いクロムウェル反撃被り大敗イングランド侵攻頓挫し捕虜となったハミルトン公は後に処刑された。代わって主導権握ったアーガイル侯穏健派排除短期間戦争継続諦めスコットランドへ進軍したクロムウェル和睦せざるを得なかった。この時にスコットランド軍の占領地域からの撤退和解契約結んだ穏健派追放決められ1649年1月定められ等級法で穏健派公職追放進められた。 同月チャールズ1世処刑されると、衝撃受けたアーガイル侯リーヴェン伯・レズリーらは一転してイングランド決別し盟約軍はチャールズ2世擁立して第三次イングランド内戦引き起こしたが、それはクロムウェル再度来寇という事態を招き1650年ダンバーの戦い大敗盟約軍の足並み乱れさらなる分裂引き起こしたアーガイル侯独立危機際し等級法を廃止、かつて排除した穏健派決議派)と手を組んでクロムウェル軍に備えたが、これを認めない少数強硬派抗議派)は離脱内紛乗じたクロムウェルスコットランド人聖職者批判通して説得応じたスコットランド人次々と降伏し南部クロムウェル軍に制圧され盟約派追い詰められた。翌1651年チャールズ2世逆転狙いイングランドへ侵攻したクロムウェル軍に捕捉されウスターの戦い決定的敗北喫しチャールズ2世大陸へ亡命1652年8月アーガイル侯降伏スコットランド平定され共和政府に吸収合併されることになった戦後イングランドクロムウェル主張沿ってスコットランドとの統合進めたが、反乱勢力にはおおむね寛大な処置臨み宗教にも寛容意図する一方で長老派弱体化させる方針取られ全国長老会解体(各教区長老会は存続)、教会加入拒否者を保護する名目独立派後援した中産階級や一市民との結びつき図り前者には経済的保護後者には宗教的寛容唱え共和国間での自由貿易封建制度解体宣言し貴族大地主弱体化させる政策行われた。またスコットランド議会廃止されしばらくジョージ・マンクなど総督の下で占領統治されたが、1655年共和国スコットランド人政治参加させる方針転換スコットランド国務会議設置したり、第二議会スコットランド人議席割り当てられたりした。統合スコットランド人嫌悪され、盟約派属していたロバート・ベイリー英語版)は一定の評価与えながらもスコットランド占領した共和国対す非難書き残したが、スコットランド曲がりなりにも安定向かい、ここで情勢伺っていたマンク1660年イングランドへ南下し王政復古実現動いていった。

※この「対イングランド戦争」の解説は、「清教徒革命」の解説の一部です。
「対イングランド戦争」を含む「清教徒革命」の記事については、「清教徒革命」の概要を参照ください。

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