対イングランド戦争
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強硬派が勝利した盟約軍は、イングランド政府に長老制実施の約束を履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ政府、特に政府軍の反発を招き、両者の関係は険悪になってきていた。1647年12月にハミルトン公ジェイムズ・ハミルトンら盟約派の穏健派はチャールズ1世と和解契約を結び、翌1648年7月にハミルトン公率いる盟約軍(エンゲージャーズ(英語版))はイングランドに攻め込んで第二次イングランド内戦を起こしたが、8月にプレストンの戦いでクロムウェルの反撃を被り大敗、イングランド侵攻は頓挫し捕虜となったハミルトン公は後に処刑された。代わって主導権を握ったアーガイル侯は穏健派を排除、短期間で戦争継続を諦めスコットランドへ進軍したクロムウェルと和睦せざるを得なかった。この時にスコットランド軍の占領地域からの撤退と和解契約を結んだ穏健派の追放が決められ、1649年1月に定められた等級法で穏健派の公職追放が進められた。 同月にチャールズ1世が処刑されると、衝撃を受けたアーガイル侯・リーヴェン伯・レズリーらは一転してイングランドと決別し、盟約軍はチャールズ2世を擁立して第三次イングランド内戦を引き起こしたが、それはクロムウェルの再度の来寇という事態を招き1650年のダンバーの戦いで大敗、盟約軍の足並みが乱れさらなる分裂を引き起こした。アーガイル侯は独立の危機に際し等級法を廃止、かつて排除した穏健派(決議派)と手を組んでクロムウェル軍に備えたが、これを認めない少数の強硬派(抗議派)は離脱、内紛に乗じたクロムウェルがスコットランド人に聖職者批判を通して説得、応じたスコットランド人が次々と降伏し南部はクロムウェル軍に制圧され盟約派は追い詰められた。翌1651年にチャールズ2世は逆転を狙いイングランドへ逆侵攻したがクロムウェル軍に捕捉され、ウスターの戦いで決定的敗北を喫しチャールズ2世は大陸へ亡命、1652年8月にアーガイル侯も降伏、スコットランドは平定され共和政府に吸収合併されることになった。 戦後イングランドはクロムウェルの主張に沿ってスコットランドとの統合を進めたが、反乱勢力にはおおむね寛大な処置で臨み、宗教にも寛容を意図する一方で長老派を弱体化させる方針が取られ、全国長老会は解体(各教区長老会は存続)、教会加入拒否者を保護する名目で独立派を後援した。中産階級や一般市民との結びつきを図り前者には経済的保護、後者には宗教的寛容を唱え、共和国間での自由貿易・封建制度解体も宣言し貴族と大地主を弱体化させる政策も行われた。またスコットランドは議会を廃止されしばらくジョージ・マンクなど総督の下で占領統治されたが、1655年に共和国はスコットランド人を政治参加させる方針へ転換、スコットランドに国務会議を設置したり、第二議会でスコットランド人に議席を割り当てられたりした。統合はスコットランド人に嫌悪され、盟約派に属していたロバート・ベイリー(英語版)は一定の評価を与えながらもスコットランドを占領した共和国に対する非難を書き残したが、スコットランドは曲がりなりにも安定に向かい、ここで情勢を伺っていたマンクは1660年にイングランドへ南下し王政復古実現に動いていった。
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