兵制改革とフランス再統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 14:29 UTC 版)
「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の記事における「兵制改革とフランス再統一」の解説
シャルル7世も、この頃からリッシュモンの私欲のなさを認め始めた。リッシュモンはデュノワ伯、ラ・イル、ザントライユといった武将を使い、イングランドに対して反対攻勢に出た。しかし、配下のブルターニュ兵はともかくとして、諸将は相変わらず傭兵隊長としての性質が強く、街道荒らし(ルティエ)と呼ばれる略奪を続けた。これはフランス民衆からの支持を失うだけでなく、時には中立化しているブルゴーニュ領内でも行い、大同盟も危うくする行動であった。特にラ・イルはたびたびブルゴーニュ領内で略奪を繰り返し、リッシュモンからたしなめられている。 リッシュモンは略奪でなく、国王の名の下による徴税によって常備軍を編成することを考えた。これはかつてシャルル5世の下で一部試みられていたことであった。またリッシュモンは砲兵の活用を積極的に推進、ジャン・ビューローとガスパール・ビューロー兄弟の助けを得て改良した大砲を攻城戦で使用した。これによってルーアンやシェルブールなどの、かつては不落であったイングランドの諸拠点が次々に陥落することになる。またイングランドの長弓部隊にまさる射程をもつ砲兵は、間接的にイングランドの切り札を封じた。 外交にも精力的に取り組み、1435年にアラスで会談が行われた。リッシュモンは出席した善良公にフランスと和睦する条件を突き詰めていき、交渉中の9月14日に障害だったベッドフォード公が死んだこともあり、1週間後の9月21日にアラスの和約が結ばれた。シャルル7世はリッシュモンの説得に渋々応じ、善良公に父を暗殺したことを公式に陳謝して、ブルゴーニュの脱落とフランスとの同盟への道をつけた。締結後はイングランドに占拠されたパリの解放に向けて戦略を整え、1436年3月に出陣してイングランド軍を蹴散らし、4月13日にパリへ入城して解放を果たした。パリ解放後もイングランドからの拠点奪回を続け、1437年にモントロー、1438年にドルー・モンタルジ、1439年にモー、1440年にサン=ジェルマン=アン=レー・バール=シュル=オーブ、1441年にクレイユ・ポントワーズ・ヴェルダンなどイル=ド=フランスとシャンパーニュの都市を次々と奪回、戦局をフランス有利に進めた。一方、シャルル7世の命令で善良公に捕らえられていたルネ・ダンジュー(メーヌ伯の兄)の釈放を善良公に掛け合い、身代金を支払い釈放させている。 また、リッシュモンは対イングランド戦争および対ブルゴーニュ公国外交と同時に、国内に大混乱を引き起こす元凶であった傭兵部隊の略奪対策を強力に推進した。1439年11月2日にシャルル7世が招集した三部会の同意の下で勅令が制定、略奪を行っている傭兵部隊は次々に駆逐されるか、報酬と引き換えに故郷へ返された。一方で、それまでの不安定な封建貴族の私兵の寄せ集めや傭兵隊長の雇用による王国軍を常備制へと変換させる兵制改革を進めた。この財源として、リッシュモンは貴族の勝手な徴税を禁じ、貴族にも税をかけた。これは大きな反発を呼んだが、結果として王権の相対的上昇をもたらし、絶対王政を成立させる大きな要因となった。 課税に対する貴族の反発は1440年にプラグリーの乱として表れ、デュノワ伯、アランソン公、ラ・トレモイユやブルボン公シャルル1世などが王太子ルイ(後のルイ11世)を擁立して反乱を起こした。対するリッシュモンはシャルル7世と連携して素早く反乱を鎮圧、改革を一層推し進めることが出来た。ジル・ド・レの領地没収に伴い発生した兄とジルの一族との紛争調停も行い、同年処刑されたジルの遺領の一部を兄から分け与えられ所領は増えたが、1442年に妻マルグリット、兄やヨランドなど身内や庇護者を失いながらもフランス南西部のギュイエンヌ遠征やジャンヌ・ダルブレとの再婚、甥のブルターニュ公フランソワ1世の後見などを務め、1445年と1448年の勅令で常備軍制定に尽力した。1446年にフランソワ1世をシャルル7世に臣従させブルターニュとフランスの提携を実現、モンフォール家とパンティエーヴル家の和解にも尽力し、こちらも1448年に両家が相続規定と領地交換の取り決めにより手を結び、背後を固めたリッシュモンはノルマンディー遠征に向けて準備を整えていった。 1449年3月、イングランド軍がブルターニュ領のフージェールを奪ったことでフランス軍は8月から11月にかけてノルマンディー遠征を開始、リッシュモン麾下の軍はノルマンディー西部のコタンタン半島を占領してフージェールを奪回、デュノワ伯の軍はルーアンなど東部を占領、ノルマンディーの大半が奪還された。イングランド王家にとって故地の喪失は許されることでなく、イングランドは大軍を編成して翌1450年3月に再上陸、それに対してフランス軍は4月15日にフォルミニーの戦いにおいて大勝利を収めた。フランス軍はリッシュモンの将であるクレルモン伯ジャンの独断開戦で各個撃破の窮地に陥りそうになったが、リッシュモンは主力を率いて直ちに救援に向かい、反撃に出て勝利を収めた。これにより要港シェルブールへの道が開け、7月1日にカーン、8月12日にシェルブールを砲兵の機動的活用により陥落させた。こうしてリッシュモンはノルマンディーを完全平定、戦後はシャルル7世の命令でノルマンディー施政官に任命され、占領行政とイングランドの警戒に当たった。 1451年に残るイングランドの領土であるギュイエンヌ奪取を目指すフランス軍の遠征にリッシュモンは外され、デュノワ伯、ジャン・ビューローらがボルドーを含むギュイエンヌを占領した。リッシュモンがフランス北部を警戒しているために、イングランドはボルドー方面から反撃を試み1452年10月にシュルーズベリー伯爵ジョン・タルボット率いるイングランド軍を上陸させギュイエンヌ回復を図ったが、1453年7月17日のカスティヨンの戦いでアンドレ・ド・ラヴァルとビューローらフランス軍がタルボットを討ち取りイングランド軍を撃破、10月19日のボルドー陥落で止めを刺されギュイエンヌはフランスが奪い返した。 1456年にはパリがようやく国王を受け入れ、ほぼ全土がフランス王の主権の下に回復された。
※この「兵制改革とフランス再統一」の解説は、「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の解説の一部です。
「兵制改革とフランス再統一」を含む「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の記事については、「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の概要を参照ください。
- 兵制改革とフランス再統一のページへのリンク