兵制論争とは? わかりやすく解説

兵制論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:38 UTC 版)

大村益次郎」の記事における「兵制論争」の解説

明治2年1869年6月2日戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り木戸孝允桂小五郎)、大久保利通並び新政府幹部となった10月24日軍務官副知事就任、益次郎軍制改革中心担い明治2年1869年6月には政府兵制会議大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争展開している。兵制会議6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊創設を図る益次郎らと、鹿児島薩摩)・山口長州)・高知土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。 益次郎諸藩廃止廃刀令実施徴兵令制定鎮台設置兵学校設置による職業軍人育成など、後に実施される日本軍建設青写真描いていた。そのための第1段階として3年間のうちに現在の藩兵を基にする軍の基礎づくり、第2段階として大阪に軍の基地兵学校武器工場置いてハード面での組織作り行った後、徴兵鎮台制を置くという考えであった大阪着眼したのは、当時東北動向を心配する関係者に対して、益次郎が「奥羽はいま十年二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である。」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩動向が気になっていたためと言われ、すでに西南戦争予想していたのである。だが、国民皆兵目標とする益次郎建設的な意見周囲理解得られなかった。大久保戊辰戦争による士族抵抗力熟知していたため、かえって士族反発を招くと考え岩倉具視らは農民武装そのまま一揆につながるとして慎重な態度とっていのである。 この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都駐留していた三藩各藩兵の取り扱いめぐってのものであった。益次郎支持する木戸も、論争加わり援護意見述べたが、23日大久保主張沿った形で、京都駐留三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利終わった。また23日会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保右腕ともいえる吉井友実議論加わり今後兵卒素材についての議論始まった。ここでも大久保吉井らの主張する「藩兵論」と益次郎木戸主張する農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し議論翌日続いた。しかし会議結果兵制問題後日改め議論することとされ、益次郎建軍プラン事実上凍結決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。 益次郎建軍構想はこの会議結果ことごとく退けられることとなった。さらに25日には、大久保が益次郎更迭主張し始めている。憤懣やるかたない次郎ほどなく辞表提出したが、当時政府内には、軍事に関して次郎代わるべき人物はなかった。そのため、木戸二官八省への官制改革が行われる前日7月7日に益次郎面会し、益次郎慰留するとともに改め支持約束し軍務官廃して新たに設置される兵部省出仕することを求めたその結果として、翌日次郎兵部大輔(今の次官)に就任することとなった。益次郎は「御一新旧習脱し公家方を武家風にいたし、強気にやる様のはずなしつるに、またまた卿とか大輔とか相唱へ、自然軟弱に陥り、追々武家公家方に引きつけらるべし」と皮肉を述べている。

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