兵制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)
明治新政府は幕府の開国派が提唱していた富国強兵策を引継ぎ、軍備の近代化を進めていく。1869年に兵部省を設置し、1872年には海軍省及び陸軍省に分離された。さらに1878年には陸軍省から参謀本部が独立し、1886年には参謀本部海軍部が設置され(1893年に海軍軍令部に改称)、軍政と軍令が分離されている。陸軍は1872年に第二次フランス軍事顧問団を、海軍は1873年にイギリスからダグラス教官団を招いて近代軍の制度的基盤を構築した。1874年には陸軍士官学校が、1876年に海軍兵学校(前身の海軍操練所は1869年設立)が設立された。明治政府の直轄軍事力は、当初薩長土の藩士中心にした御親兵(後に近衛師団に発展)のみであったが、廃藩置県後の1871年に4個の鎮台が整備され、各藩が保有していた軍備は廃止された。鎮台兵は当初は士族の志願兵により構成されていたが、1873年には徴兵令が公布されると共に6個鎮台へと拡張され、国民軍への移行が始まった。翌1874年には、新政府初の外征となった台湾出兵が行われたが、派遣兵力は鎮台兵1個大隊、九州で徴募した士族からなる1個大隊で、鎮台兵も士族中心の構成であった。なお、この出兵に対して清国は積極的な対応を取らなかったが、これは日本海軍が2隻の甲鉄艦(東艦、龍驤)を保有していたためで、これをきっかけに清は海軍の増強を開始している。1877年の西南戦争でも鎮台兵に加えて士族の徴募兵が参加した。1885年には、陸軍大学校教官としてドイツからメッケル少佐が招聘され、その後の帝国陸軍の基礎が作られた。メッケルの指導もあり、国内治安重視の鎮台制は1888年に外征も可能な師団制へ移行された。1889年の徴兵令の改正によって、当初あった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、ほぼ国民皆兵制が実現できた。海軍は横須賀、呉、佐世保、舞鶴に鎮守府を設置し、さらに各鎮守府に海軍工廠を併設して艦艇の建造・修理を行うことを可能にした。
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