徴兵制推進論者
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兵学寮で指導をしていた当時は陸軍兵制の確立に向けて、国民皆兵志向であり徴兵を基本とするフランス式兵制を推進する大村益次郎派(農兵論)と、士族藩兵を中心にイギリス式兵制を進める大久保利通派(藩兵論)が争っていて、大村死後も山田顕義達がその遺策を受け継いで対立が続いていた。大島は大村の系統に属しており、フランス式の急進派であった。 兵学寮では原田一道や揖斐章と共に近代陸軍に必要な士官を育てており、後に大島義昌、大久保春野、児玉源太郎を輩出した。 大阪兵学寮にはフランス式兵制を教育中の教導隊(青年学舎)の他に、隊員の出身藩と同じ山口・岡山・鳥取藩士ら、屯所兵隊と呼ばれる集団が居り、厳しい修練を課す原田や揖斐が彼らに寮内で佩刀を禁止したことにより、旧身分意識の強い鳥取藩士が騒動を起こし、長州藩士の多くもこれに続いて反乱寸前となり処罰が行われた。この件では後に教官側の揖斐も謹慎処分に処されている。このような対立の一方で、大島は厳しいフランス式修練とは別に、外国の士官が優遇されていることを引き合いに待遇改善を主張した。 貞薫が学び、教えた兵学は、当初は江戸時代の蘭学者が教範を翻訳して学んだオランダ式兵制のものであった。これはナポレオン戦争によって大陸諸国に普及した兵制であり、フランス式の影響を大きく受けており、蘭学者が学んだ教範自体がフランス語をオランダ語に翻訳したものもあった。幕末から明治にかけてオランダ式兵制はフランス式兵制に移行したが、この転換は比較的スムーズにおこなわれ、兵学寮では教官により一部の号令にオランダ語が使用されるなどした。このフランス式兵制は徴兵制に基づく国民皆兵を前提としており、貞薫の持論である国民皆兵主義や徴兵制推進に大きな影響を与えた。 普段は温厚で感情を露わにするようなことはなかったが、兵制などの自己学理に関わる議論には非理を決めて妥協を許さない態度を取った。
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