徴兵拒否の実例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:12 UTC 版)
日本では近代に集権的な政府によって徴兵制(徴兵令)が実施されると、徴兵が免責されていた養子の身分を得る為に養子縁組を行う者や、徴兵制施行が先延ばしにされていた北海道に本籍を移す者(近代の徴兵制は本籍地で区分された)が後を絶たなかった(兵役逃れ)。同様に朝鮮・台湾など植民地や、沖縄や小笠原諸島など徴兵制のない土地に移住する者もいた。著名な人物では夏目漱石、鈴木梅太郎らが本籍地を移して徴兵忌避者となっている。血税一揆など徴兵制そのものに反対する暴動も発生し、遂には「徴兵忌避の指南書」が販売されるまでになり、国民皆兵を目指す明治政府を悩ませた。政府の苦悩を他所に国民の間では「徴兵、懲役、一字の違い」と、「徴兵は監獄に入れられるのと同じであり、徴兵忌避は当然のことだ」と揶揄する言葉が流行した。徴兵忌避者にはのちの立憲政友会総裁、社会民衆党党首、元勲の女婿、帝国美術院会員などもいる。 こうした徴兵忌避者を減らすべく、徴兵令に代わり制定された兵役法では「徴兵を不当に忌避しようとした者」には罰則が設けられた。他に第二次世界大戦中に学徒出陣が行われた際、学徒動員の対象外とされた理工系学部に生徒が殺到し、文系学部から転科する者も大勢現れた。 1861年に成立したイタリア王国では徴兵忌避が全国的に発生し、1860年から1871年の間に13万8千人の徴兵忌避者を出している。1865年以後は徐々に減少したものの、1884年の2.87%を下限として再び上昇し、1895年以降は徴兵対象者の9%以上が徴兵忌避を行っている。 ベトナム戦争期のアメリカ合衆国では平和運動の高まりもあって大規模な徴兵忌避が増加した。政治的な理由、宗教的な理由から徴兵拒否は行われ、ベトナム戦争当時、モハメド・アリはイスラム教の教えに従うとして、徴兵を拒否した。SF作家のウィリアム・ギブスンは、徴兵を拒否してカナダに移住し、しばらくホームレスとして路上生活を経験した。後の大統領ビル・クリントンは上院議員J・ウィリアム・フルブライトのスタッフであったために徴兵を受けず、批判者からは意図的な徴兵逃れではないかという指摘を受けた。やはり大統領となるジョージ・W・ブッシュも、連邦軍を忌避するため州兵に志願した。『ベトナム症候群』(著者:松岡完、出版社:中公新書)によると、ベトナム戦争への徴兵に従わなかった者は57万人、うち起訴された者は2万5000人、有罪判決を受けた者は9000人、実際に処罰されたのは3000人となっている。 また、黒人解放運動家のマルコムXは精神異常を装うことで、第二次世界大戦の際に徴兵されるのを逃れた。物理学者のファインマンは兵役につく際に行われた精神鑑定の結果、不採用になった。アインシュタインは「偏平足」の診断を受けて、スイスの兵役を免除されている。 児童文学作家のミヒャエル・エンデは16歳の時、召集令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会の神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回った。 画家の山下清は、徴兵検査を逃れるために放浪した。その後21歳の時に知的障害者施設の職員によって滞在先の食堂で発見され、強制的に徴兵検査を受けさせられたが兵役を免除された。 アドルフ・ヒトラーはオーストリア=ハンガリー帝国の徴兵義務を拒否し、ミュンヘンで逃亡生活を送った末に逮捕され、徴兵検査を受けたが不適格と診断された。第一次世界大戦の勃発とともにドイツ帝国陸軍(厳密にはバイエルン軍(英語版))へは積極的に志願した。『我が闘争』 によると、ドイツに対する帰属心が強く、オーストリアのために戦う気はなかったからという。
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