徴兵逃れ、亡命、カウンターカルチャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:02 UTC 版)
「ウィリアム・ギブスン」の記事における「徴兵逃れ、亡命、カウンターカルチャー」の解説
18歳で母親を亡くしたギブスンは、学校を中退してカリフォルニアやヨーロッパを旅したり、カウンターカルチャーに没頭したりして、長い間孤立した生活を送っていた。1967年、「ベトナム戦争の徴兵を避けるために」カナダへの移住を決意した。徴兵の聴聞会では、ギブスンは面接官に正直に、自分の人生の意図は、存在する全ての 心を変える物質を試すことにあることを伝えた。ギブスンは「文字通りに徴兵を忌避したわけではない、徴兵されても困りはしなかったから」と述べ、聴聞会のあと帰宅してからトロントへのバスのチケットを購入し、1週間か2週間後に出発した。ギブスンは2000年の伝記ドキュメンタリー No Maps for These Territories の中で自身の決断は「ヒッピーの女の子と寝たい」とか「ハシシにふけりたい」という願望よりも、良心的兵役拒否によって動機付けられたと述べている。ギブスンは2008年のインタビューで次のように述べている: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私が作家としてスタートしたとき、やってはいけないところで徴兵忌避のための功績を上げていた。徴兵を回避するという漠然とした考えを持ってカナダにたどり着いたが、その後、私は決して徴兵されなかったので、電話をかける必要はなかった。もし本当に徴兵されていたらどうしていたかわからない。当時の僕は、きつく包装されていたわけではなかった。もし誰かが徴兵されていたら、泣いて帰っていたかもしれない。もちろん、それは嫌だっただろうけどね。 —ウィリアム・ギブスン、io9 のインタビュー、2008年6月10日 数週間の名ばかりのホームレス生活の後、ギブスンはトロント初のヘッドショップ(英語版)のマネージャーとして雇われた。ギブスンはこの街のアメリカ人徴兵忌避者の移民グループの臨床的うつ病、自殺、筋金入りの薬物乱用の堪え難さに気が付いた。1967年のサマー・オブ・ラブの最中にトロントのヨークビルのヒッピー・サブカルチャーについてのCBSのニュースリールに出演し、500ドル(20週間分の家賃に相当する)の支払いを受け、その後の旅の資金となった。ワシントンD.C.での「短期間の暴動に見舞われた期間」を除けば、ギブスンは1960年代の残りの期間をトロントで過ごし、そこでバンクーバー出身のデボラ・ジーン・トンプソンと出会い、後にヨーロッパへと旅立った。ギブスンは、彼らの旅はファシスト政権と有利な為替レートのヨーロッパ諸国に集中しており、ギリシャの列島や1970年のイスタンブールでの時間を含めて、彼らは「ハードカレンシーのようなものがあるところにはどこも滞在するような余裕がなかった」からだと説明している。 二人は1972年に結婚し、ブリテッシュ・コロンビア州バンクーバーに住み着き、ギブスンが最初の子供の世話をしながら、妻の教師としての給料で生活していた。1970年代、ギブスンは救世軍の中古品点で低価格の品物を仕入れて専門業者に卸すことで生計を立てていた。。仕事をするよりも、大学でよい成績を維持して手厚い学資補助を受ける方が簡単であることに気が付いたギブスンは、ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に入学し、1977年に「退屈な英語の学士号」を取得した。英文学を学ぶことで、他の方法では読まなかったであろう幅位広いフィクションに接し、ポストモダン性への認識など、SF文化の中ではアクセスできないアイデアを与えてくれたとギブスンは評価している。UBCではスーザン・ウッド(英語版)が教えるSFに関する最初のコースに参加し、その最後にギブスンの最初の短編小説「ホログラム薔薇のかけら(英語版)」を書くように勧められた。
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