吉川忠安
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吉川 忠安(きっかわ ただやす、文政7年閏8月28日(西暦1824年10月20日)-明治17年(1884年)10月9日)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した出羽国久保田藩(現、秋田県)の藩士で砲術家、兵法家、平田篤胤の流れを汲む国学者[1]。幕末維新期の久保田藩(秋田藩)で勤王派(「正義派」)を代表する人物で、戊辰戦争における久保田藩の官軍参加に決定的な役割を果たした[2]。
注釈
- ^ 小野崎通亮(1833年-1903年)は国学者で、慶応4年(1868年)に明徳館教授となった人物。明治維新後は神祇官判事試補や秋田藩大参事、貴族院議員などをつとめた。
- ^ 藩主佐竹義堯は、文久3年に横手城代の戸村義效を家老に抜擢し、箱館で軍艦を購入、能代で大船10隻を建造させるなどの備えを固め、慶応4年閏4月11日には戸村を陸奥国白石(仙台領)に派遣して白石会議に参加させ、列藩同盟の盟約に調印させたが、藩論は分裂して統一できていなかった。庄内藩は会津藩とともに勤王派弾圧に辣腕をふるった佐幕派の領袖と見なされており、官軍側からは徹底的な討伐が主張されていた。奥羽鎮撫総督府の下参謀であった世良修蔵が福島で暗殺されると、総督九条道孝は盛岡に、副総督澤為量は新庄に転進し、7月1日には秋田で落ち合うこととなっていた。渡辺(2001)p.276
- ^ 慶応4年7月3日、久保田城では早朝より藩の去就を決するための会議がひらかれていたが、勤王論と守旧派の慎重論が対立して容易に結論がでなかった。その夜、忠安門下の砲術所の浪人が家老石塚源一郎宅をおとずれ、石塚・小野岡両家老に庄内藩討伐の決定とその先陣を強く訴えた。翌7月4日早朝、藩主義堯は、対立をしりぞけ、みずから採決して「一藩勤王」の決意を宣告した。今村(1969)pp.145-146
- ^ 特に蒸気機関の積極的な活用を唱えるなど、当時の久保田藩では能代の山本誠之助とともに傑出した進歩的人物であったと評価される。『秋田人名大事典 第2版』「吉川忠安」(2000)pp.193-194
- ^ オランダの商会との契約を仲介したのは、土佐藩の岩崎弥太郎であった。蒸気船の購入と交易資金の借用が契約の中身で、本藩は契約破棄に奔走したが、時を失ってできず、結局現金借入名義と艦の引き受けを本藩に変更し、借金は以後の商取引による利潤で返済することにした。しかし、当の八坂丸は回航中に時化に遭遇し、佐渡島沖で難破した。ここで、土佐藩仲介が裏目に出て短期間のうちに借財が膨大なものに膨れ上がってしまったのであった。『近代の秋田』(1991)pp.9-10
出典
- ^ a b 渡辺(2001)pp.270-278
- ^ a b c d e 田口(1983)pp.22-24
- ^ a b c d e f 渡部(1981)p.237
- ^ a b c d e コトバンク「吉川忠安」
- ^ a b c d e f g h 今村(1969)pp.144-147
- ^ a b c d e f g h i 『秋田人名大事典 第2版』「吉川忠安」(2000)pp.193-194
- ^ a b 田口(1983)pp.24-27
- ^ 田口(1987)pp.204-215
- ^ a b 『近代の秋田』(1991)pp.1-14
- ^ a b c 田口(1983)pp.37-40
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.25
- ^ 『秋田のお寺』「清浄山見佛院聲体寺」(1997)p.46
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