元治・慶応年間とは? わかりやすく解説

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元治・慶応年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:16 UTC 版)

平田延胤」の記事における「元治・慶応年間」の解説

元治元年7月19日1864年8月20日)の禁門の変において長州軍が完敗し8月上旬には下関四国艦隊砲撃があって長州藩在国勢力壊滅的状況陥ったことによって、政局は再び急展開様相示した長州藩は「朝敵となって征討対象となり、筑波勢に対す幕府諸藩連合軍の攻撃激しさ加えた。それを受けて国許秋田では、吉田松陰知己でもあり、平田派支持していた勤王派の渋江厚光国家老の職を罷免された。久保田藩では、朝廷より元治元年冬の京都警衛命じられており、小川亀雄ら藩内の勤王派は速やかな上洛建白したが、一方で7月下旬以降幕府から水戸天狗党の乱対処するために警衛人数引き連れて江戸出府せよとも命じられていて、その対応に苦慮していた。藩主佐竹義堯はまずは江戸出て様子をみて上京許可を得ることとしたが、幕府義堯上京許可をあたえなかった。 江戸府中、再び幕府武威確立されていくことを感じ取った義堯は藩内の尊王派一斉に処罰した平田延胤献上罷免遠慮処分処せられ、片岡鎌之進、鈴木三郎太郎青柳忠治遠藤源生富岡寅之助、豊間源之進、井口糺は上京供奉罷免のうえ国許への帰還命じられ小川亀雄、髙瀨権平村瀬佐一郎布施銀平らはそれぞれの役を免じられている。江戸国許勤王派は弾圧された。久保田藩内には、それでもなお平田派対す警戒心隠さない佐幕保守の人も少なくなかったが、元治元年から翌年にかけて全国諸藩共通して吹き荒れた政治反動の嵐のなかでは、むしろ久保田藩処罰は他藩にくらべて穏やかなのだったといわれる。延胤も従来どおり、学問読書いそしむことができたのである幕末期にあって藩論分裂つづいた久保田藩であったが、慶応3年1867年12月9日王政復古の大号令が出るにおよんで小野岡義礼吉川忠安ら藩内の勤王派が台頭した江戸滞在していた佐竹義堯王政復古号令が発せられたことを知るや、ただちにいったん国許引き上げて状況見きわめようとし、そのための京都工作本学頭取平田銕胤をあて、彼に対し12月20日藩主建白たずさえて上京するよう命じた一方、延胤に対して3年前遠慮処分解き、やはり12月10日付で本学教授任命したうえで、みずからの帰国随伴させた。延胤は、平元貞治・金大之進らは先に藩主の上洛を妨げた張本人であり、斬奸するほかないと訴え家老のひとり戸村義效(のちに白石会議参加して奥羽越列藩同盟盟約調印)もまた保守派であるとして批判している。戊辰戦争では延胤は一貫して討幕勤王・反同盟立場立った

※この「元治・慶応年間」の解説は、「平田延胤」の解説の一部です。
「元治・慶応年間」を含む「平田延胤」の記事については、「平田延胤」の概要を参照ください。

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