元治・慶応年間
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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変において長州軍が完敗し、8月上旬には下関で四国艦隊砲撃があって長州藩在国勢力も壊滅的状況に陥ったことによって、政局は再び急展開の様相を示した。長州藩は「朝敵」となって征討の対象となり、筑波勢に対する幕府・諸藩連合軍の攻撃も激しさを加えた。それを受けて国許の秋田では、吉田松陰の知己でもあり、平田派を支持していた勤王派の渋江厚光が国家老の職を罷免された。久保田藩では、朝廷より元治元年冬の京都警衛を命じられており、小川亀雄ら藩内の勤王派は速やかな上洛を建白したが、一方では7月下旬以降、幕府から水戸天狗党の乱に対処するために警衛人数を引き連れて江戸に出府せよとも命じられていて、その対応に苦慮していた。藩主佐竹義堯はまずは江戸に出て、様子をみて上京許可を得ることとしたが、幕府は義堯に上京許可をあたえなかった。 江戸滞府中、再び幕府の武威が確立されていくことを感じ取った義堯は藩内の尊王派を一斉に処罰した。平田延胤は献上方罷免・遠慮処分に処せられ、片岡鎌之進、鈴木三郎太郎、青柳忠治、遠藤源生、富岡寅之助、豊間源之進、井口糺は上京供奉罷免のうえ国許への帰還を命じられ、小川亀雄、髙瀨権平、村瀬佐一郎、布施銀平らはそれぞれの役を免じられている。江戸と国許の勤王派は弾圧された。久保田藩内には、それでもなお平田派に対する警戒心を隠さない佐幕・保守の人も少なくなかったが、元治元年から翌年にかけて全国諸藩に共通して吹き荒れた政治反動の嵐のなかでは、むしろ久保田藩の処罰は他藩にくらべて穏やかなものだったといわれる。延胤も従来どおり、学問や読書にいそしむことができたのである。 幕末期にあって藩論の分裂がつづいた久保田藩であったが、慶応3年(1867年)12月9日、王政復古の大号令が出るにおよんで小野岡義礼・吉川忠安ら藩内の勤王派が台頭した。江戸に滞在していた佐竹義堯は王政復古の号令が発せられたことを知るや、ただちにいったん国許に引き上げて状況を見きわめようとし、そのための京都工作に本学頭取の平田銕胤をあて、彼に対し、12月20日に藩主建白をたずさえて上京するよう命じた。一方、延胤に対しては3年前の遠慮処分を解き、やはり12月10日付で本学教授に任命したうえで、みずからの帰国に随伴させた。延胤は、平元貞治・金大之進らは先に藩主の上洛を妨げた張本人であり、斬奸するほかないと訴え、家老のひとり戸村義效(のちに白石会議に参加して奥羽越列藩同盟の盟約に調印)もまた保守派であるとして批判している。戊辰戦争では延胤は一貫して討幕・勤王・反同盟の立場に立った。
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