処刑された人々とは? わかりやすく解説

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処刑された人々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:28 UTC 版)

草生津刑場」の記事における「処刑された人々」の解説

梅津政景日記』の1624年寛永元年6月3日新暦7月16日)の条に「一、きりしたん三十二人火あぶり、内二十一人十一人女一、天気よし」とある。久保田城外の刑場で、三十二人キリシタン火あぶりの刑処せられた。河合喜右衛門二十一人武士とその母、妻子たちで、彼らは最後まで改宗拒み、あえて殉教の道を選んだという。喜右衛門第二子太郎役人救いの手振り切って父や兄と共に十三歳命を捧げたその日は城下久保田近郷から集まった見物人刑場前の丘は黒山の人であった引かれてきた三十二人刑場につくと一人づつしばられ、まもなくのそばにマキが詰まれ、そして火が付けられていった三十二人信徒たちは声を合わせて主の名を呼んだ。「われらを憐れみ給え。主よ、われらを憐れみ給え…」彼らの祈り周囲にひびき渡った。しかし間もなくその叫び燃え盛る火中消えていった。その夜から三晩の間、その上空に不思議な光が輝くのを近郊ミナ(湊?)の住民確かに見たという。これは『1624年イエズス会日本年表』の伝えるこの日の模様大要である。そして、三十二人処刑され刑場は、「久保田より三里へだてるヤナイの地」とある。このヤナイの地を草生津刑場とする研究者もいる。ジアン・クラセの『日本西教史』やレオン・パジェスの『日本基督教史』にもその場面の記録がある。 『秋藩紀年』には1635年寛永12年9月三日切支丹宗徒於て火炙四日草生津にて成敗」と記載されている。『秋田沿革史大成』にも佐竹義隆の項に同様の記事がある。 転封当時久保田藩修験道佐竹氏の血をひく今宮家が頭領として支配していたが、3代目義賢死によって今宮家は失脚した以後今宮家から家老排出するものの山伏頭領職は廻ってこなかった。1682年これに不満をもった和光院鈴木宗因)は商人に姿を変え久保田脱出し江戸寺院奉行出訴した。和光院捕らえられ、その兄の一応院、子の円兵衛、釘屋丸兵衛の4人が草生津10月23日成敗された。和光院3日獄門かけられた。 1757年宝暦7年)の秋田騒動では、野尻三郎父子6月6日斬首され、那珂忠左衛門8月6日庶民下され引き回しの上斬首されている。 1868年慶応4年戊辰戦争では、久保田藩血気はやった勤王塾生らが奥羽鎮撫総督府幹部けしかけられて、仙台藩使節一行皆殺しにした。7月4日内命受けた勤王派の壮士たちは、夕刻より襲撃の手配を整え茶町ノ丁幸野屋、仙北屋の両宿に夜の10時頃に斬り込んだ惨殺されたのは7人は、5日川反五丁目橋のたもとさらされた。久保田藩捕らえられ残りの5人を16日草生津刑場引き出して斬首し、先の7士の遺体と共に刑場一隅埋葬した1870年明治3年)に殺戮指揮した吉川忠安有志によって、使節持参金60両を基金にして西来院地内現在地)に改葬すると共に法名をつけて慰霊碑を建立した。

※この「処刑された人々」の解説は、「草生津刑場」の解説の一部です。
「処刑された人々」を含む「草生津刑場」の記事については、「草生津刑場」の概要を参照ください。

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