処刑による死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 18:40 UTC 版)
アルトの調教がなくなりトンプソンとダンディはトプシーを持て余したが、引き取り手も見つからなかった。1902年12月3日、ルナパークの広報であるチャールズ・ミュレイは数日中にトプシーを電気により安楽死させると発表した。少なくとも地元の新聞社1社が詳細および、新設のルナパークが新聞を賑わせ続けるためトプシーによる宣伝効果は絶大であると記した。1903年1月1日、トンプソンとダンディは1月3日または4日にトプシーを入場料25セントで公開処刑すると発表した。当時、園の中心となる200フィート(61m)の電気塔が75フィート(23m)まで建てられていた、ラグーン中央部の以前ボートが滑り落ちる遊具のあった島が処刑場として選ばれた。広報のミュレイは報道を操作し、園の周囲に横断幕および簡易絞首台の四方に「1903年5月2日、コニーアイランド中心部に100万ドルかけ開発されたルナパーク開業」と宣伝した。 トンプソンとダンディの計画を知ったアメリカ動物虐待防止協会(ASPCA)のジョン・ピーター・ヘインズ会長は「不必要な残虐な殺害方法」として絞首を禁じ、有料での一般公開をやめるよう伝えた。トンプソンとダンディは代替案についてヘインズと話し合った。以前にも毒殺などによる安楽死を行なっていたが、2年前にニューヨーク州バッファローでジャンボ2世という象を感電死させようとして失敗していた。ASPCAへの譲渡を含み何度も交渉を繰り返し、太縄で繋いだ蒸気ウインチで絞殺することとなった。さらに毒および電気も使用することとなった。 1903年1月4日日曜日にトプシーの処刑が行われることが決まった。1,500名の見物人、100名の報道写真家、そして経過を見守るためのASCPAの職員が集まった。トンプソンとダンディは100名の見物人の入場を許可したが、それ以外の人々もフェンスを乗り越えて侵入した。有料で近隣の建物のバルコニーや屋根から見物させる者もいた。電気塔にも太縄が設置されており、ASPCAの職員たちは目を光らせていた。感電死は地元の電力会社であるブルックリン区のエジソン・エレクトリック・イルミネーティング・カンパニーのチーフ電気技術者P・D・シャーキーの監修のもと複数の職員が担当した。ブルックリン区ベイ・リッジにあるより大きな変電所から電線との交換で、9ブロック先のコニーアイランド変電所から電線を引くのに夜通しかかった。ベイ・リッジにてスタッフは、エンジンを入れ、コニーアイランド変電所への送電線と母線をクリアにするようにと言われた。 動物ショーを行なっていたカール・ハーゲンベックの元職員で象専門家のカール・ゴリアスにより、トプシーは檻から未完成のルナパークに率いられた。新聞記事によると、ゴリアスがせかしたりニンジンやリンゴで釣るのを無視し、トプシーはラグーンに架かる橋を渡るのを拒否した。トンプソンとダンディはトプシーに橋を渡らせるために、処刑を見たくないとするアルトを連れてこようとし、アルトは25ドルの報奨金を提示されてもこれを拒否したが、1,000ドルなら引き受けると語った。結局橋を渡らせるのは諦め、その場で処刑することにした。蒸気、縄、電線が引き直された。電気技術者は電気が全身に回るよう、銅製サンダルをトプシーに履かせてAC線を右前足および左後ろ足と繋いだ。シャーキーは全てがクリアなことを確認し、トプシーはミュレイから後ずさりしながらも青酸カリ460グラムが混ぜられたニンジンを与えられた。午後2時45分、シャーキーは信号を送り、電気技術者は電話でコニーアイランド変電所の監督にスイッチを押すよう語り、ルナパークのチーフ電気技術者ヒュー・トーマスは園内の他のスイッチを押し、ベイ・リッジからトプシーの体に6,600ボルトの電圧が10秒間印加され、トプシーは地面に倒れた。記事によると、トプシーはいななきもうめきもせず亡くなった。トプシーが倒れた後、蒸気ウインチの輪を2つ、トプシーの首に10分間巻いた。2時47分、トプシーの死亡が宣告された。ASPCAの職員および、トンプソンとダンディに雇われた2人の獣医がトプシーが感電死したことを確認した。コニーアイランド変電所の管理者であるジョセフ・ジョハンソンは、園に送電中に感電死しそうになり混乱した。ジョハンソンは気絶し、右手から左足に通電して小さな火傷が残った。
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