殉教記の執筆
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西暦851年6月3日、かつてコルドバ=アミール国のカーティブ・アッ・ズィンマーム(ズィンマの書記)であったキリスト教徒イサークはイスラーム法の裁判官の面前でイスラームとその預言者ムハンマドを批判し、アブド・アッラフマーン2世によって斬首刑に処された。これ以降も続々と官吏の目の前でイスラームや預言者ムハンマドを批判するキリスト教徒が現れ、死刑になった。アブド・アッラフマーン2世は驚くとともに激怒し、イスラームに対する批判はどのような理由があれ死刑であるという法令を改めて発布し強調した。しかし後継者であるムハンマド1世が即位して後もこのような事態は続き、キリスト教徒に対する警戒感が高まった。ムハンマド1世はキリスト教徒の官吏を追放し、これまで無視されてきたズィンミーに対する権利制限を厳格に施行するなどズィンミーに対する抑圧を強化する政策を採った。 このような状況で、キリスト教社会の殉教者に対する意見は二分された。当初は処刑された人々への同情が強かったが、アミールとその政府がキリスト教に対する圧迫を強めると、多くのキリスト教徒が態度を翻し、「個人的な魂の救済のために共同体を危機にさらした。」と殉教者を非難した。 これに対してエウロギウスは親友であるアルヴァルスとともに殉教者を熱烈に擁護し、彼らの徳と勇気を賞賛した。また彼は殉教記の中で批判者たちに反論を行った。彼は上に記した反イスラーム主義的態度をもってムハンマドとイスラームを攻撃し、「イスラームがキリスト教と同系の宗教である以上、公然と罵倒を加え、無用ないさかいを引き起こす必要はなかった。」とする批判者たちの意見に対しては、「イスラームがキリスト教(カトリック)の根本教義である三位一体を否定し、イエス・キリストを被造物であるとして冒涜している」以上批判者のように両宗教の同質性に言及し、殉教の意義を軽視する意見は誤っていると反論した。さらに彼らのイスラームに対する融和的態度自体が「キリスト教の唯一性と絶対的優越性を自ら放棄するもの」であるとして厳しく批判した。また上にも述べたようにキリスト教への抑圧に言及し、「ズィンミーとしての権利制限は殉教を志願すべき程度の迫害ではない」とする意見も批判した。
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