殉節三烈士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 13:51 UTC 版)
のちに第二軍が金州城を占領した時(11月6日)、敵の文書で山崎羔三郎、鐘崎三郎、藤崎秀ら3人の壮烈な死の顛末が明らかになった。遺体は向野らの努力によって発見され(明治28年2月7日)、遺骨は郷里に送られたが、金州に駐屯中の根津は北門郊外の一山頂に碑を建てて表紹慰霊し、この山を三崎山と命名した(三人の姓にいずれも崎の字がついている)。三碑は三国干渉で遼東半島を返還することになったため、東京高輪の泉岳寺に移された。 三崎山。三烈士の墓碑。 泉岳寺に移された三烈士の墓碑。
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