殉職とその後の捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 07:36 UTC 版)
「J・D・ティピット」の記事における「殉職とその後の捜査」の解説
詳細は「ケネディ大統領暗殺事件」を参照 1963年11月22日、ティピットはいつものパトロールエリアである78番地、ダラス近郊のオーク・クリフ(英語版)南部にある住宅地の中を巡回していた。ケネディ大統領狙撃から15分後の12時45分、ティピットは市内中心部に警官を集めるため、オーク・クリフの中心部まで車で急行するよう無線指令を受ける。12時54分、ティピットは指定の場所へ移動したことを無線報告した。この時間までに、ディーリー・プラザで大統領を狙撃した人物の人相が複数放送されていたが、その内容は細身の白人男性で、年は30代前半、背格好は身長5 フィート 10 インチ (1.78 m)の体重約165ポンド (75 kg)というものだった。司法解剖結果によれば、リー・ハーヴィー・オズワルドは、細身の白人男性で24歳、身長は5 フィート 9 インチ (1.75 m)、推定体重は150ポンド (68 kg)であった。 13時11分から14分頃、10号車のパトカーでゆっくりと東10番街を東へ走っていたティピットは、サウス・パットン・アヴェニューとの交差点からおよそ100フィート (30 m)の場所で、無線報告の人相書きによく似た人物を見つけて職務質問を行った。オズワルドはティピットの車の方へ歩いてきて、開いた三角窓越しに数語を交わしたようである。ティピットは車のドアを開けて車の前へ出たが、その瞬間オズワルドがハンドガンを引き抜いて、立て続けに4発速射した。ティピットは胸部と腹部に1発ずつ、そして右側頭部に1発を受けた(1発はボタンに当たったが皮膚までは通らなかった)。駆けつけた救急がすぐにメソジスト病院 (Methodist Hospital) へ搬送したが、13時25分にリチャード・A・リグオリ医師 (Dr. Richard A. Liguori) が死亡宣告した。 この直後、ハーディの靴屋 (Hardy's shoe store) の店長だったジョニー・ブルーワー (Johnny Brewer) は、パトカーがサイレンを鳴らしながら近くを通る中、不審な動きをするオズワルドの姿を目撃した。オズワルドはその後チケットも買わずにテキサス・シアター(英語版)へ逃げ込んでいる。警察は劇場のレジ係から通報を受け、劇場を取り囲んだ。短時間の乱闘の後、オズワルドはこの劇場で逮捕された。
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