那珂忠左衛門
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秋田杉直物語で悪役にされた那珂忠左衛門は旧名を那珂采女と言い、作中では那河や那可などと記載される。那珂忠兵衛通実とも言う。那珂は1751年(寛延4年)に『秋田昔物語』を著していて、これは彼の遺著になっている。『秋田昔物語』(『羽侯有明昔物語』、『昔物語』、『羽侯昔物語』、『那珂通実昔物語』、『那珂忠左衛門昔物語』などの写本があり、多くは秋田公文書館に所蔵されている)は秋田叢書 第9巻に収録されており、深澤多市の解説には「子孫奉公の種にすべしとのことにて書き記した」とある。 同書には藩政の初期には銀鉱山の隆盛によって、藩財政が潤沢であった様子(p.31)や「藩主の一言で自分を殺さなければいけなくなったり、一言で藩主に弓をひくようになったりする。…古来家来をおろそかにして身を殺された主人が諸書に記録されている」(p.50)という記述、既に佐竹義格の時代に佐竹義道と那珂は共に藩主の共をしたこと(p.52)、「孔子の道で天下太平を治めるのは大切なことだが、日本では唐の通りにはならない。その国々毎に政治の気風や性格があるのだ」(p.66)などの記述がある。 井上隆明は同書を「藩史に親しむ向きならば、一度は読まねばならぬ著名本となっている。しかも人間の言動を主とし俗人の眼力ではない。秋田第一級の随筆本とためらいなく推せるだろう」と評価している。 那珂は佐竹家譜や国典類抄に大館から養子入りしたとある。用人、財用奉行、大坂蔵屋敷に5年務め、その後愛宕下の御前様付頭役を務めている。国典類抄によれば、事件の後で次男の小姓である村野治右衛門親孝と大館給人の実兄忍三郎左衛門宗英とともに処罰されている。孫の政五郎は未成年のために難をのがれた。菅江真澄の友人であった那珂碧峰は、那珂氏の祖に那珂忠左衛門がいるため、藩の重臣になることを遠慮している。 那珂忠左衛門は末期養子である。那珂の実家の忍家は佐竹義宣からの新参で、大館の給人で先祖は武州の領主と考えられる。現存の那珂氏の系図からは那珂忠左衛門の名はない。久保田の手形柳生流の天明時代の門弟帳の中に那珂要人という人物が免許皆伝の師範になっていて、那珂を名乗る門弟が多数見える。土居輝雄はこの事実から那珂一族の頂点であった忠左衛門が柳生流の免許皆伝であったことは間違いないだろうとしている。忠左衛門の長男の新兵衛は早死し、妻は次男治右衛門の養子先の野村家に引き取られていた。土居輝雄は那珂忠左衛門が藩主義明を裏切った契機は、宝暦7年4月に佐竹義明がその次男と妻を江戸の松平屋敷に引き取れと命令したことに発するとした。那珂はこれを藩主から佐竹氏との縁切りを言い渡されたと考え、怒り陰謀を企てたとする。
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