『秋田杉直物語』とは? わかりやすく解説

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『秋田杉直物語』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:20 UTC 版)

秋田騒動」の記事における「『秋田杉直物語』」の解説

馬場文耕作品と言われ講談調に秋田騒動描いた作品である。『秋田杉直物語』では秋田騒動お家騒動捉えている。馬場文耕は『平良仮名森の雫』で幕府処刑されたが、その直前描いたのが『秋田杉直物語』ということになる。『平良仮名森の雫』の郡上藩改易になり、秋田藩改易にならなかった。表向きお家騒動にまで至らず公儀の力を借りなかったことが秋田藩幸いしたかも知れない。『秋田騒動実記』の跋(後書き)には芝切通し港区虎ノ門5丁目南側)で、1日ずつこの本と金記(『森の雫』)を講じたと書かれている江戸時代には講談主な演目としてお家騒動がある。三田村鳶魚によればお家騒動最初に読んだ者こそ馬場文耕である。彼は、お家騒動描いた平良仮名森の雫』『森岡貢物語』『秋田杉直物語』の作品作ったが、『平良仮名森の雫』は一書としてまとめられたかどうかも明らかでなく、『森岡貢物語』は盛岡藩使者老中たちの悶着描いたのであるが、短編でありお家騒動呼べる程の奥行きはない。したがって、『秋田杉直物語』こそが最も古いお家騒動講釈種本であるという。さらに、馬場文耕唯一の中編でもあるという。 『秋田杉直物語』の記述は、まず佐竹藩の家督相続経緯についての紹介から始まる。2代藩主佐竹義隆には3人の男子がいた。正室の子である佐竹義処家督継ぎ3代藩主となるが、次男壱岐守佐竹義長2万石、三男(実は長男)で側室の子式部義興に1万石を与え、もし本家嗣子がないときには壱岐守家か式部家から入って家督相続をさせることにした。4代藩主佐竹義格には子が無く壱岐守家の佐竹義長の子である佐竹義峯入って5代藩主となった。ところが、義峯にも子が無かったため、壱岐守家の意向反し式部家の佐竹義堅養子迎えた。しかし、義堅は家督相続以前死去したため、子の佐竹義真が跡を継いで6代藩主となった佐竹義真在位4年足らず死去し今度壱岐守家から佐竹義長長男である佐竹義明7代藩主となった。 話は戻り佐竹義峯作中では義岑)は徳川吉宗仕えていた。ある年の月並み御礼日に登城し大名達は、お国自慢始める。義峯が傘の代わりにもなる大きなフキ自慢をしたところ、他の藩主から法螺話受け取られ嘲られてしまう。その場大目付播磨守鎮められたが、義峯の怒り収まらない。そこで、藩主名誉のために那珂忠左衛門大きなアキタブキ取り寄せ、義峯に恥辱与えた大名達と筧播磨守饗応の宴に招き大きな披露する那珂藩主の名誉を回復し義峯に取り入り、これより第一出世頭になる。那珂知恵才覚富み加えて風流人十種香茶の湯達人であった。後に、那珂忠左衛門松平隠岐守の妻になっていた義峯の長女付家老となる。 義峯は重病侵され養子候補者2人立つ。一人佐竹壱岐家の求馬(後の佐竹義明)。もう一人式部少輔家の佐竹義堅作中では義照)であった佐竹家門閥である四家も、梅津家、渋江家、戸村家も義堅を推し義堅が義峯の養子になる。義峯の父、佐竹義道壱岐守)は那珂取り入り那珂に「孫の求馬を本家跡継ぎにしたい。しかし、本家には佐竹義堅と、その子佐竹義真がいる。とうてい求馬が出る幕はない。残念なことである」と話をした。那珂元来邪欲があって忠義の志は薄いので、佐竹義道と共に謀略巡らす那珂は義堅が勤務先松平隠岐方に暑中見舞いに来た際に毒殺してしまう。家督息子佐竹義真作中では義直)が継ぐ。義真若年ながら骨のある人物であった細川越中守板倉修理のために殿中横死したときに、騒ぎ立つ諸大名取り鎮め津軽越中守秋田藩内の川越人足無法城内声高に告げられ次の年に、その川越人足達を死罪にして晒した那珂義真暗殺決意をし、家老山方八郎用人小野崎源太左衛門大久保東市、大島左仲、信太弥右衛門膳番三枝仲、近習小姓女中達の多くを手名付ける那珂風流人だったので女中達に取り入ることが甚だ巧みであった那珂膳番三枝仲に命じて佐竹義真毒殺し山方小野崎共謀して家督は求馬に渡す」という偽の遺言状作る家督評定席上那珂小野崎に対して戸村十太夫相馬尊胤の子相馬采女福胤を推す結局義真江戸出立の際に老中差し出していた仮養子人物家督相続を願うことに決定する佐竹義道壱岐守)は秘かに老中堀田相模守 を訪れかねてより収賄によって懇意にしていたので、義真書き付け密封のまま返却され家督佐竹義明が継ぐことになる。 その後那珂自身栄達のため妖婦「お百」を義明の侍妾勧め、義明を酒食耽るように仕向ける加えて銀札使い始めて秋田藩金銀銀札替えて百姓町人金銀奪い取ろうとする姦計思い立つ困窮して愁訴ようとする者は押し込めてしまい、義明には国が潤っているとのみ報告する安堵した義明は遊興に日を過ごす。那珂国元佐竹山城近づき、自ら考えた新法銀札使い)の書き付けを渡す。家督振る舞いの際、佐竹山城は義明に新法書き付け見せて賛成した佐竹義道壱岐守ともども国政改めるように進言する。ところが、義明は真っ直ぐな性格で、名君だった義真が行わなかった新法施行することを拒む那珂伊勢屋三郎右衛門抱き込み国元四家始め家老用人までも説得し連判取った上で再び義明に願い出て銀札遣い許可される銀札遣いが、伊勢屋三郎右衛門総元締めとして施行されるが、引き替え順調に行われず銀札値打ち暴落する。そこで、能登谷喜兵衛福田七兵衛、かがや惣兵衛引換所を申しつけられる。秋田藩領の人々困窮する中で、郡奉行の平元茂助治め院内領だけは銀札遣い一切行わない。その上平元は戸村渋江梅津らの旧臣進めて八橋太守開き人々食料分け与える町人百姓恨みもっぱら那珂伊勢屋集まり、ある夜数百人の者達によって伊勢屋打ち壊される折り悪く、その宝暦5年凶作であった佐竹義明入部の年ということで、藩主愁訴ようとする者が多い。義明は初入部に際し万事質素に取り行う。那珂江戸常住となるが、義明入国の際には、那珂一味大挙して出迎え口々に国が良く治まっていることを証言する。義明は翌年江戸に戻る。 那珂は義明が篤実思い通りにならないので、義明を不行跡者にして隠居させ、秀丸(佐竹義敦)に家督を継がせ、自分秋田手の中入れよう考える。まずは、義明に那珂の妾(実質女房)のお百から勧めさせて、お百の妹分として側室抱えさせる。宝暦7年、義明の再入部の年になる。今回那珂手配して御部屋同道ということで、おびただしい荷物仕立てられ、つつじ千本がわざわざ江戸から送り届けられる。しかし、郡奉行の平元茂助万民困窮最中妾の人夫まで駆り立てることはできないと、院内口でそれらを捨ててしまう。これによって、那珂一味は平元を恨むようになる江戸で那珂が義明に種々讒奏し「平元押込め」の書き付け渡したところ、国元では佞人達が平元を切腹させようとするが、これを聞きつけた戸村十太夫は平元をかばう。 宝暦7年5月、義明は秋田城まで一日戸島宿を取る山方八郎三枝仲ら那珂一党は義明に向かい四家面々戸村梅津渋江らが申し合わせて領民困窮太守一人責任にして、太守押し込めようとしていると言上する驚いた義明は、小野崎源太左衛門信田弥右衛門使者として、四家石塚太夫岡本又太郎閉門申しつける城下から物頭太田内蔵介が戸島まで来て諫言ようとするが、山方三枝はばまれる。翌日義明は秋田城入り忠臣達は山方三枝小野崎らを捕らえ獄舎入れる。那珂江戸から呼び寄せられることになり、宝暦7年7月那珂一味小野崎御酒大島左仲と共に江戸出立する院内関所まで来て那珂実兄の忍三郎左衛門からの書状悪事露頭したことを知ると、直ち2人捨て院内関所無理に押し通り江戸に戻る。しかし、義明と松平隠岐守との直接の手紙のやりとりによって、愛宕下屋敷から誘い出され幽閉される。お百は奉公請状偽造し下女ということまんまと逃れる那珂一味切腹改易蟄居等を仰せつけられる那珂庶民下され引き回しの上秋田八橋にある草生津刑場処刑される。平元茂助総奉行になり、四家人々忠義面々加増を受ける。お百はその後高間右衛門という人物引き取られる。 『秋田杉直物語』には多く矛盾点があり批判受けているが、真実混じっているという人もいる。特に複数人膳番切腹処刑されている事実がある。また、最後に一括して載せている関係者賞罰も、秋田での記録とほぼ一致している上、那珂忠左衛門引き回しの上処刑という最も重い刑に処せられている。実際馬場文耕には秋田藩情報集められていた。彼に連座江戸払にされた貸本屋藤兵衛判決文には、佐竹秀丸(佐竹義敦)の家中不埒者がいて、雑説書き留め住所不明秋田旅人長助から馬場文耕情報流し著述させたとある。 『秋田杉直物語』は初期実録物としては出色のものであり、後続作にも影響与えた。『秋田杉直物語』では、那珂忠左衛門全ての陰謀企てた悪役であるという形になっている。 『秋田杉直物語』(深秘録本)の序文書いた三田村鳶魚によると、この騒動原因は、5代藩主佐竹義峯次の養子生家である壱岐守家からではなく、あえて式部家から迎えたことが、対立発端であるとしている。「公平に両分家から送立したようであるが、此の時から藩中に両分家の一方荷担する者を生じ遂に党派勢いをなした」とした。また「重臣戸村十太夫等は壱岐守家を援け重臣山方八郎等は式部少輔家を引きて陵轢せるなり」と、重臣らの対立発展した解説している。しかし「後年藩命を以て戸村の男に助三郎の女を妻合わせ山方氏を再興せしめしなど、旁々宝暦内訌は、朋党争闘なるが如くに観ぜられる」と、両家縁組み対立解消はかられ、この騒動本質が実は派閥党争であったことを指摘している。しかし、三田村鳶魚どのような史料根拠でこの解説書いたのかは現在では不明である。

※この「『秋田杉直物語』」の解説は、「秋田騒動」の解説の一部です。
「『秋田杉直物語』」を含む「秋田騒動」の記事については、「秋田騒動」の概要を参照ください。

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