『秋田杉直物語』
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馬場文耕の作品と言われ講談調に秋田騒動を描いた作品である。『秋田杉直物語』では秋田騒動をお家騒動と捉えている。馬場文耕は『平良仮名森の雫』で幕府に処刑されたが、その直前に描いたのが『秋田杉直物語』ということになる。『平良仮名森の雫』の郡上藩は改易になり、秋田藩は改易にならなかった。表向きはお家騒動にまで至らず、公儀の力を借りなかったことが秋田藩に幸いしたのかも知れない。『秋田騒動実記』の跋(後書き)には芝切通し(港区虎ノ門5丁目南側)で、1日ずつこの本と金森記(『森の雫』)を講じたと書かれている。 江戸時代には講談の主な演目としてお家騒動がある。三田村鳶魚によればお家騒動を最初に読んだ者こそ馬場文耕である。彼は、お家騒動を描いた『平良仮名森の雫』『森岡貢物語』『秋田杉直物語』の作品を作ったが、『平良仮名森の雫』は一書としてまとめられたかどうかも明らかでなく、『森岡貢物語』は盛岡藩の使者と老中たちの悶着を描いたものであるが、短編でありお家騒動と呼べる程の奥行きはない。したがって、『秋田杉直物語』こそが最も古いお家騒動の講釈の種本であるという。さらに、馬場文耕の唯一の中編でもあるという。 『秋田杉直物語』の記述は、まず佐竹藩の家督相続の経緯についての紹介から始まる。2代藩主佐竹義隆には3人の男子がいた。正室の子である佐竹義処が家督を継ぎ3代藩主となるが、次男の壱岐守佐竹義長に2万石、三男(実は長男)で側室の子の式部義興に1万石を与え、もし本家に嗣子がないときには、壱岐守家か式部家から入って家督相続をさせることにした。4代藩主の佐竹義格には子が無く、壱岐守家の佐竹義長の子である佐竹義峯が入って、5代藩主となった。ところが、義峯にも子が無かったため、壱岐守家の意向に反し、式部家の佐竹義堅を養子に迎えた。しかし、義堅は家督相続以前に死去したため、子の佐竹義真が跡を継いで6代藩主となった。佐竹義真は在位4年足らずで死去し、今度は壱岐守家から佐竹義長の長男である佐竹義明が7代藩主となった。 話は戻り、佐竹義峯(作中では義岑)は徳川吉宗に仕えていた。ある年の月並みの御礼日に登城した大名達は、お国自慢を始める。義峯が傘の代わりにもなる大きなフキの自慢をしたところ、他の藩主から法螺話と受け取られ嘲られてしまう。その場は大目付筧播磨守に鎮められたが、義峯の怒りは収まらない。そこで、藩主の名誉のために、那珂忠左衛門は大きなアキタブキを取り寄せ、義峯に恥辱を与えた大名達と筧播磨守を饗応の宴に招き、大きな蕗を披露する。那珂は藩主の名誉を回復し義峯に取り入り、これより第一の出世頭になる。那珂は知恵と才覚に富み、加えて風流人で十種香や茶の湯の達人であった。後に、那珂忠左衛門は松平隠岐守の妻になっていた義峯の長女の付家老となる。 義峯は重病に侵され、養子の候補者が2人立つ。一人は佐竹壱岐家の求馬(後の佐竹義明)。もう一人は式部少輔家の佐竹義堅(作中では義照)であった。佐竹家の門閥である四家も、梅津家、渋江家、戸村家も義堅を推し義堅が義峯の養子になる。義峯の父、佐竹義道(壱岐守)は那珂に取り入り、那珂に「孫の求馬を本家の跡継ぎにしたい。しかし、本家には佐竹義堅と、その子佐竹義真がいる。とうてい求馬が出る幕はない。残念なことである」と話をした。那珂は元来邪欲があって忠義の志は薄いので、佐竹義道と共に謀略を巡らす。那珂は義堅が勤務先の松平隠岐守方に暑中見舞いに来た際に毒殺してしまう。家督は息子の佐竹義真(作中では義直)が継ぐ。義真は若年ながら骨のある人物であった。細川越中守が板倉修理のために殿中で横死したときに、騒ぎ立つ諸大名を取り鎮め、津軽越中守が秋田藩内の川越人足の無法を城内で声高に告げられた次の年に、その川越人足達を死罪にして晒した。那珂は義真暗殺の決意をし、家老山方助八郎、用人小野崎源太左衛門、大久保東市、大島左仲、信太弥右衛門、膳番三枝仲、近習、小姓、女中達の多くを手名付ける。那珂は風流人だったので女中達に取り入ることが甚だ巧みであった。那珂は膳番の三枝仲に命じて佐竹義真を毒殺し、山方・小野崎と共謀して「家督は求馬に渡す」という偽の遺言状を作る。家督評定の席上、那珂・小野崎に対して、戸村十太夫は相馬尊胤の子、相馬采女福胤を推す。結局、義真が江戸出立の際に老中に差し出していた仮養子の人物に家督相続を願うことに決定する。佐竹義道(壱岐守)は秘かに老中堀田相模守 を訪れ、かねてより収賄によって懇意にしていたので、義真の書き付けは密封のまま返却され、家督は佐竹義明が継ぐことになる。 その後、那珂は自身の栄達のため妖婦「お百」を義明の侍妾に勧め、義明を酒食に耽るように仕向ける。加えて、銀札使いを始めて、秋田藩の金銀を銀札に替えて百姓町人の金銀を奪い取ろうとする姦計を思い立つ。困窮して愁訴しようとする者は押し込めてしまい、義明には国が潤っているとのみ報告する。安堵した義明は遊興に日を過ごす。那珂は国元で佐竹山城に近づき、自ら考えた新法(銀札使い)の書き付けを渡す。家督振る舞いの際、佐竹山城は義明に新法の書き付けを見せて、賛成した佐竹義道(壱岐守)ともども国政を改めるように進言する。ところが、義明は真っ直ぐな性格で、名君だった義真が行わなかった新法を施行することを拒む。 那珂は伊勢屋三郎右衛門を抱き込み、国元の四家始め、家老用人までも説得し連判を取った上で再び義明に願い出て、銀札遣いが許可される。銀札遣いが、伊勢屋三郎右衛門が総元締めとして施行されるが、引き替えが順調に行われず銀札の値打ちは暴落する。そこで、能登谷喜兵衛、福田七兵衛、かがや惣兵衛も引換所を申しつけられる。秋田藩領の人々が困窮する中で、郡奉行の平元茂助 の治める院内領だけは銀札遣いを一切行わない。その上平元は戸村、渋江、梅津らの旧臣に進めて、八橋で太守の蔵を開き人々に食料を分け与える。町人百姓の恨みはもっぱら那珂と伊勢屋に集まり、ある夜数百人の者達によって伊勢屋は打ち壊される。折り悪く、その宝暦5年は凶作であった。佐竹義明入部の年ということで、藩主に愁訴しようとする者が多い。義明は初入部に際し万事質素に取り行う。那珂は江戸常住となるが、義明入国の際には、那珂の一味が大挙して出迎え、口々に国が良く治まっていることを証言する。義明は翌年江戸に戻る。 那珂は義明が篤実で思い通りにならないので、義明を不行跡者にして隠居させ、秀丸(佐竹義敦)に家督を継がせ、自分が秋田を手の中に入れようと考える。まずは、義明に那珂の妾(実質は女房)のお百から勧めさせて、お百の妹分として側室を抱えさせる。宝暦7年、義明の再入部の年になる。今回は那珂が手配して御部屋同道ということで、おびただしい荷物が仕立てられ、つつじ千本がわざわざ江戸から送り届けられる。しかし、郡奉行の平元茂助は万民困窮の最中妾の人夫まで駆り立てることはできないと、院内口でそれらを捨ててしまう。これによって、那珂一味は平元を恨むようになる。江戸では那珂が義明に種々讒奏し「平元押込め」の書き付けを渡したところ、国元では佞人達が平元を切腹させようとするが、これを聞きつけた戸村十太夫は平元をかばう。 宝暦7年5月、義明は秋田城まで一日の戸島に宿を取る。山方助八郎、三枝仲ら那珂一党は義明に向かい、四家の面々や戸村、梅津、渋江らが申し合わせて、領民の困窮を太守一人の責任にして、太守を押し込めようとしていると言上する。驚いた義明は、小野崎源太左衛門や信田弥右衛門を使者として、四家や石塚孫太夫、岡本又太郎に閉門を申しつける。城下から物頭の太田内蔵介が戸島まで来て諫言しようとするが、山方、三枝にはばまれる。翌日義明は秋田城に入り、忠臣達は山方、三枝、小野崎らを捕らえ獄舎に入れる。那珂も江戸から呼び寄せられることになり、宝暦7年7月に那珂は一味の小野崎御酒、大島左仲と共に江戸を出立する。院内の関所まで来て、那珂は実兄の忍三郎左衛門からの書状で悪事が露頭したことを知ると、直ちに2人を捨て院内の関所を無理に押し通り、江戸に戻る。しかし、義明と松平隠岐守との直接の手紙のやりとりによって、愛宕下の屋敷から誘い出され幽閉される。お百は奉公請状を偽造し、下女ということでまんまと逃れる。那珂一味は切腹、改易、蟄居等を仰せつけられる。那珂は庶民に下され引き回しの上、秋田の八橋にある草生津刑場で処刑される。平元茂助は総奉行になり、四家の人々や忠義の面々は加増を受ける。お百はその後、高間磯右衛門という人物に引き取られる。 『秋田杉直物語』には多くの矛盾点があり批判を受けているが、真実が混じっているという人もいる。特に複数人の膳番が切腹や処刑されている事実がある。また、最後に一括して載せている関係者の賞罰も、秋田での記録とほぼ一致している上、那珂忠左衛門は引き回しの上処刑という最も重い刑に処せられている。実際、馬場文耕には秋田藩の情報が集められていた。彼に連座し江戸払にされた貸本屋の藤兵衛の判決文には、佐竹秀丸(佐竹義敦)の家中に不埒者がいて、雑説を書き留め、住所不明の秋田の旅人長助から馬場文耕に情報を流し、著述させたとある。 『秋田杉直物語』は初期の実録物としては出色のものであり、後続作にも影響を与えた。『秋田杉直物語』では、那珂忠左衛門が全ての陰謀を企てた悪役であるという形になっている。 『秋田杉直物語』(深秘録本)の序文を書いた三田村鳶魚によると、この騒動の原因は、5代藩主の佐竹義峯が次の養子を生家である壱岐守家からではなく、あえて式部家から迎えたことが、対立の発端であるとしている。「公平に両分家から送立したようであるが、此の時から藩中に両分家の一方に荷担する者を生じ、遂に党派の勢いをなした」とした。また「重臣戸村十太夫等は壱岐守家を援け、重臣山方八郎等は式部少輔家を引きて陵轢せるなり」と、重臣らの対立に発展したと解説している。しかし「後年藩命を以て戸村の男に助三郎の女を妻合わせて山方氏を再興せしめしなど、旁々宝暦の内訌は、朋党の争闘なるが如くに観ぜられる」と、両家の縁組みで対立の解消がはかられ、この騒動の本質が実は派閥党争であったことを指摘している。しかし、三田村鳶魚がどのような史料や根拠でこの解説を書いたのかは現在では不明である。
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