桃川如燕の「妲己のお百」
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「妲己のお百」の記事における「桃川如燕の「妲己のお百」」の解説
河竹黙阿弥の『善悪両面児手柏』(1889年)には「妲己のお百」が登場する。その、河竹黙阿弥は初代桃川如燕の「妲己之於百」の講談を聞いている。『厚化粧万年島田』 を描いた為永春水は九篇序(明治5年、1872年)で「講釈士桃川如燕は『秋田蕗』という本を見て毒婦阿百を見いだし、物語を作った。私はその外伝を作る」と書いている。『秋田蕗』は『秋田杉直物語』の悪役、那河忠左衛門のことを詳細に加筆した本である。 桃川如燕は「妲己のお百」を次のように表現している。 どう言うわけで「妲己のお百」と言うのかというと、出生が大坂で、江戸で悪事を働き佐渡に流されたものの、佐渡を脱出し、佐竹の愛妾百合という名前になった。しかし、遂に佐竹で処刑された。天竺に華陽夫人が、唐土で妲己と言い、日本では玉藻前と3度名前が変わった悪狐に等しい夫人だということで妲己のお百の名前がついている。 前記の通り、『秋田杉直物語』ではお百を玉藻前に例える記述が存在した。物語は怪談物として脚色されており、前半の概要は次の通りである。 秋田藩の船頭、桑名屋徳蔵が掟を破って大晦日に船出したところ、海坊主が現れる。佐竹氏から拝領した国俊の刀で切りつけると海坊主は姿を消す。翌元日、徳蔵の妻は真っ黒な按摩に鍼で殺される。大坂に戻ってこれを聞いた徳蔵は車禅坊と名前を変えて修行の旅に出かける。 年月が過ぎ、徳蔵の息子徳平衛は立派な回船問屋を営んでいる。享保8年の大晦日、海坊主の13回忌で回向の後で国俊の刀を抜くと煙のような気が立った。大坂の雑魚場の魚売りの新助の妹お百(13歳)は器量よしで従順である。お百は海坊主の気に乗っ取られ、肩から胸元にかけて赤い痣が生じ、性格もすっかり変わって荒々しくなる。お百を桑名屋に奉公に出すと、お百は徳平衛と密通し、妻のお高を追い出そうと図る。お百は徳平衛にお高が番頭と不義を働き、お高の腹の子も番頭の子だという。これをすっかり信じた徳兵衛はお高を折檻し、庇った奉公人の佐吉ともども裸で雪の中に追い出す。お高は新助宅に引き取られ子供を産むが、赤子が痣だらけなのを見て折檻のせいだと、お百を恨み死ぬ。 お百は贅沢三昧の生活をしていたが、3年後、桑名屋は火の気が無い土蔵から火が出て全焼する。お高の一念によるものである。持ち船も難破し、徳兵衛とお百は江戸に下った。持ち金がなくなり江戸で徳兵衛はお百と心中しようとするが、お百は高笑いをする。夫婦喧嘩しているところに割って入ったのが美濃屋重兵衛である。重兵衛は二人を自宅に連れ帰る。徳兵衛が金を返してもらうため、甲州まで行って来ると重兵衛の家は貸屋になっており、二人の行方は知れない。それより徳兵衛は紙屑買いになってお百を訪ね歩く。2年後深川八幡前で流行の芸者小三となったお百に徳兵衛は邂逅する。徳兵衛は一度はお百に斬りかかったものの言いくるめられてしまう。お百はその日の夜中駆け落ちしようと持ちかけ、刻限になると徳兵衛に石瓦を詰めた大荷物を持たせ、木場で海に突き落として殺してしまう。帰ろうとすると、徳兵衛は人魂となってお百の前に現れる。しかしお百は「お前はとんだ親切者。提灯がわりに照らしておくれか」と言う。 (後略) この後お百は数々の悪行を行い、秋田騒動に関わり秋田20万石を横領しようと企むが、見破られ最後を迎える。 『増補秋田蕗』は3分の2程が、このような脚色されたお百の怪談話が描かれていて、元のお家騒動の話は簡略化されている。 夫を殺した"毒婦"の物語は多いが、妲己のお百は夫殺しの後も次々に殺人を繰り返し、最後には一国を乗っ取ろうとまでした。綿谷雪は『近世悪女奇聞』(1979年)で「女として、人間として、妲己のお百には他に比肩し得ないスケールの大きさと重厚さがある」と評している。
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