ダルル・イスラム運動とは? わかりやすく解説

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ダルル・イスラム運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/05 09:44 UTC 版)

セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の記事における「ダルル・イスラム運動」の解説

1949年8月7日、カルトスウィルヨはダルル・イスラム運動を結成しシャリーアに基くインドネシア国家「インドネシア・イスラム国」の樹立宣言したスカルノ政権基盤脆弱だったため、カルトスウィルヨとの和解求め1950年5月2度目接触試みるが、既に国軍と「インドネシア・イスラム国」軍の戦闘開始されていたため失敗している。しかし、10月22日、カルトスウィルヨはスカルノ書簡送り、「反共産主義同盟の締結」「インドネシア・イスラム国の承認国境線指定」を要求している。 1952年1月、カルトスウィルヨと同じくイスラム国家樹立目指す南スラウェシ州のアブドゥル・カハル・ムザカル(英語版)が、1953年9月にはアチェ州ダウド・ブルエ反乱勢力が「インドネシア・イスラム国」への参加表明し、カルトスウィルヨは彼らを各地指揮官任命した各地反乱勢力糾合したことで「インドネシア・イスラム国」は勢力拡大し1950年代には西ジャワ3分の1支配下置いた1957年にはジャカルタのチキニでスカルノ暗殺を図るが失敗している。 1959年スカルノ政権盤石化により国軍優勢に立ち、国軍は「インドネシア・イスラム国」の拠点包囲し補給ルート寸断する。これによりダルル・イスラーム運動劣勢に陥り、1960年にはダウド・ブルエが「インドネシア・イスラム国」を離脱し、カルトスウィルヨも4月国軍から銃撃され負傷する追い詰められたカルトスウィルヨは1961年総力戦宣言し市民から物資略奪し始めたため、「インドネシア・イスラム国」の衰退拍車をかけた。1962年5月、カルトスウィルヨはイード・アル=アドハー刺客送り込み再びスカルノ暗殺を図るが、失敗している。 1962年6月4日、カルトスウィルヨはガルト山奥にある隠れ家国軍逮捕され6月6日ジャカルタ移送される指導者失った「インドネシア・イスラム国」は国軍降伏し8月までにダルル・イスラム運動は壊滅した

※この「ダルル・イスラム運動」の解説は、「セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の解説の一部です。
「ダルル・イスラム運動」を含む「セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の記事については、「セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の概要を参照ください。

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