ダルーガとバスカク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:45 UTC 版)
「タタールのくびき」の記事における「ダルーガとバスカク」の解説
「ダルガチ」も参照 サライに定住したのち貢納を受け取るだけの単なる貴族となったモンゴル人であったが、ジョチ・ウルスに属する遊牧民がルーシの辺境にあるかぎり、ルーシの人びとは遊牧民の侵入や略奪から完全に免れることはできなかった。侵入は実際には頻繁ではなかったものの、ひとたび侵入が起こると、おびただしい数の犠牲者が出て、土地は荒廃し、疫病や飢餓も蔓延した。ルーシ諸国は、南方のステップからの遊牧民の襲撃に対する防衛のため国費の多くを割かざるを得なかった。 ルーシの人びとは、固定額の貢納(人頭税)を賦課された。当初モンゴルはすべての人やものの10分の1を要求したといわれるが、これが文字どおり実施されたかどうかは定かではない。ジョチ・ウルスの初期には、ルーシの各地にモンゴルの代官がやってきて人びとから概算額を徴収しただけであったが、1257年、クビライの女婿キタトがルーシ方面のダルガチ(ロシア語ではダルーガ)に任命されている。ダルーガは、担当区域での人口調査(チスロ)や徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、法の執行と秩序維持の任務にあたった。同年、ルーシでは人口調査がおこなわれ、ノヴゴロド周辺と教会関係者を除いて、10戸、100戸、1,000戸、10,000戸の行政単位に区分されて「納税者名簿」に登録された。 キタトや人口調査官が人口調査の任を終えて帰国したのち、ルーシにはバスカクという官が置かれ、1259年ごろからは人口調査に基づいて貢納額が定められた。バスカクは、その実態についてよくわかっていないところも多いが、加藤一郎は少数の手兵を率いた「諸侯の活動の監督官」とみており、栗生沢猛夫は、ルーシ各地に駐留し、徴税・徴兵作業を監督して治安維持をはかった地方官としている。ダルガチが「印を押す」というモンゴル語を語源とするのに対し、バスカクも「押す」「圧する」を意味するテュルク系の単語に由来しており、ダルーガとバスカクの職務権限はほぼ同じであると考える研究者が多い一方、ダルーガを軍政官、バスカクを民政官として区別して考える研究者もいる。 「タタールのくびき」の象徴ともいえるバスカクは14世紀初めまでの年代記記事のなかに多く確認され、その後はあまり言及されなくなる。同じころ、ルーシ諸公が自ら貢税(ヴィホド)を集めることが認められてようになってくるので、当該期にバスカクが廃止され、諸侯がその職務を引き継いだのではないかと推論する立場がある。それに対し、1327年のトヴェリの対タタール反乱を契機として、あまりに抑圧的なバスカク制が廃止されたとみる研究者もいて意見の分かれるところである。いずれにせよ、最終的に地元の公や大公に貢納の権限が一任されたため、それ以後はルーシの大公・公が自領民に対し重税を課すようになり、ルーシの民がジョチ・ウルスの貴族や官僚に直接会う機会はなくなった。 このあとの史料ではむしろダルーガへの言及が多く確認されている。ダルーガ自身はサライなどハン国内の都市にいてルーシ各地の統治にあたり、ときに使者(ボスルィ)を派遣してハンの意志を伝達したものと思われる。
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