ダルリアダ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:28 UTC 版)
「オエンガス1世 (ピクト王)」の記事における「ダルリアダ分割」の解説
730年代、オエンガス1世はダルリアダ王国と争った。アイルランドを拠点として伝統的にこの王国を支配してきたケネル・コンガル家(英語版)は、この時期にはかなり弱体化していた。733年には、ケネル・コンガル家の長フレセベルタフ・マック・ローンジフに従う艦隊がダルリアダからアイルランドに向かう際に、ケネル・ネーガン家(英語版)のアエダ・アラン(英語版)に敗れて大損害を被っていた。ダルリアダの支配者だったケネル・ガブラーン家のエオハズ・マック・エハダハは733年に没し、その後誰が王国を引き継いだのかは王名表でも不明確になっている。アーガイル北部のケネル・ローン家は、720年代にエオハズにダルリアダ王位を追われたドゥンガル・マック・シュルバグが長の地位にとどまっていた。 731年、オエンガス1世の息子ブリィディ率いるピクト軍と、タロルガン・マック・コンガザ率いるダルリアダ軍が衝突したことが記録されている。733年、ドゥンガル・マック・シュルバグが「ブリィディを追い出した際にトーリー島(英語版)の(聖域)を穢した」。ドゥンガルはケネル・ローン家の王位も剥奪され、従兄弟のムイルダハ・マック・アンブケラフ(英語版)が跡を継いだ。 734年、タロルガン・マック・コンガザが兄弟の手でピクト人に引き渡され、溺死させられた。またタロルガン・マック・ドロスタンがDún Ollaigh近くで捕縛された。彼はアソル(英語版)の王で、739年にオエンガス1世により溺死させられた。同年、オエンガス1世はドゥンガルにも矛先を向けた。ドゥンガルは負傷し、Dún Leithfinnという要塞が破壊された。その後ドゥンガルは「オエンガス1世の勢力から脱するべく、アイルランドへ逃れた」。 年代記によれば、オエンガス1世は736年に二度目のダルリアダ遠征を行った。ドゥンガルはアイルランドから帰ってきていたが、兄弟のFeradachと共に捕らえられて鎖につながれた。Creicとドゥネッド(英語版)の要塞がオエンガス1世の手に落ちた。ケネル・ローン家のムイルダハはもはや勢力を回復できなくなり、おそらくAwe湖でオエンガス1世の兄弟タロルガン・マック・ファーガスに大敗を喫した。最後の741年の遠征でも、ダルリアダは敗北した。アルスター年代記は「ファーガスの子オエンガスによるダルリアダの打倒」(Percutio Dál Riatai la h-Óengus m. Forggusso)という記録を残している。これ以降、ダルリアダは数十年間歴史上から姿を消す。 またオエンガス1世は、アイルランドにおけるアエダ・アランとカタル・マック・フィングィン(英語版)の間の戦争に関わり、どちらかと手を組んで戦っていた可能性がある。それを示す証拠は僅かだが、例えば733年にオエンガス1世の息子ブリィディがドニゴール(英語版)の北西岸に浮かぶトーリー島(英語版)にいたことが分かっている。ここはアエダ・アランの敵フレセベルタフ・マック・ローンジフの領域に程近い。またアイルランド断片年代記(英語版)によれば、733年にフォルトリウからフレセベルタフを支援するピクト人の艦隊が現れた。
※この「ダルリアダ分割」の解説は、「オエンガス1世 (ピクト王)」の解説の一部です。
「ダルリアダ分割」を含む「オエンガス1世 (ピクト王)」の記事については、「オエンガス1世 (ピクト王)」の概要を参照ください。
- ダルリアダ分割のページへのリンク