アチェ独立運動とは? わかりやすく解説

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アチェ独立運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 10:02 UTC 版)

アチェ独立運動

自由アチェ運動司令官アブドゥラ・シャフィイと女性兵士1999年
戦争:アチェ独立運動
年月日1976年12月4日2005年8月15日
場所インドネシアアチェ
結果:インドネシアの戦術的勝利
交戦勢力
インドネシア
自由アチェ運動
指導者・指揮官
スハルト
ユスフ・ハビビ
アブドゥルラフマン・ワヒド
メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ
スシロ・バンバン・ユドヨノ
トリ・ストリスノ英語版
エンドリアルトノ・スタルト英語版
スティヨソ英語版
バンバン・ダルモノ英語版
ダイ・バクティアル英語版
ハッサン・ディ・ティロ
ザイニ・アブドゥラ英語版
アブドゥラ・シャフィイ英語版
ムザキル・マナフ英語版
戦力
12,000人(1990年)[1]
30,000人(2001年)[1]
35,000[2]–50,000人(2003年)[1]
25人(1976年)[3]
200人(1979-1989年)[3]
15,000–27,000人(1999年)[3]
3,000人(2005年)[4]
損害
約100人が死亡[5] 15,000人の民間人と軍人の死者[6]

アチェ独立運動は、インドネシアスマトラ島北部アチェ州で、同国からの分離・独立をもとめるアチェ人の運動である。

スハルト政権期の1976年10月、ハッサン・ディ・ティロによって結成された自由アチェ運動(Gerakan Ache Merdeka, 略称:GAM)がその運動の中心的存在である。

沿革

オランダ領東インド期

この政治運動の歴史は、インドネシアオランダ植民地支配に組み込まれていく過程で生じたアチェ戦争にまで、その起源をさかのぼると考えられる。

当時アチェを統治していたアチェ王国スルタンはオランダに降伏したが、王国の主権を委譲する手続きは行われなかった。そのため、アチェ人からは日本軍政期・インドネシア独立戦争を経て、オランダ領東インドの主権がオランダからインドネシア連邦共和国(当時)に委譲された際に、アチェ王国の主権までインドネシアに委譲されたことは無効であると主張された。

アチェ特別州の設置

かつてオランダ領東インド時代、日本軍政時代を通して、外来の支配者との妥協によって旧権力を保持した伝統的支配者層(ウレーバランという領主層)に対して、イスラーム指導者を中心とするアチェ人勢力はインドネシア独立戦争期に社会革命を実行し、これら旧支配者層を放逐し、オランダとの武力闘争を継続した。

こうしたアチェ人の抵抗運動は「インドネシア独立闘争の礎である」とスカルノに言わしめ、その貢献を認められてスカルノは「アチェをイスラム法に基づく自治区とする」と約束し[7]1949年12月に中央政府によってアチェ州が設置された。ところが、ハーグ円卓会議の対策としてオランダが作った傀儡諸国家の統合を済ませた中央政府は、1950年8月に州再編を行い、アチェ州を北スマトラ州に併合してしまう。

この決定に不満を持ったアチェ人勢力は武力闘争を開始し、ウラマーのリーダーであり軍政長官だったダウド・ブルエを首班として1953年インドネシア共和国から離脱し、ジャワ島西部を中心にイスラム国家の成立を目指すダルル・イスラム運動が1949年に興したインドネシア・イスラム国に加わると宣言した。

ダルル・イスラム運動が劣勢になった1955年には「インドネシア・イスラム国アチェ構成国」として独立を宣言したが、1960年スマトラ島で起きた反スカルノ勢力による反乱によって作られたインドネシア統一共和国への参加を宣言した。しかし、翌1961年にはインドネシア統一共和国は鎮圧され、ブルエは「アチェ・イスラム国」として再び独立宣言をすることになる。

中央政府はアチェ人の抵抗運動を鎮圧する一方で妥協案を出し、1959年にアチェを大幅な自治権をもつ特別州として復活させた。ブルエはアチェ特別州へのイスラム法の適用などを条件として和平を受け入れ、1963年に投降した。

独立運動の終結

1965年スカルノが失脚しスハルト政権に移行したのち、1968年にはキリスト教徒移住者の増加を理由としてアチェ特別州へのイスラム法の適用は停止させられた。また、1970年代にはアチェの資源開発が盛んに行われたが、収益のほとんどは中央政府に吸い上げられ、アチェ住民の不満が増大していった[7]

1976年に「自由アチェ運動」(GAM)が結成され、「アチェ・スマトラ国」の独立を宣言し、武力闘争に入った。GAMを率いたハッサン・ディ・ティロは国際社会の理解を得られやすいようにGAMの目標に「アチェ王国の復活」を掲げ、ジャワ人による植民地化への解放闘争であると訴えた。

インドネシア軍によって1979年にGAMは一旦鎮圧され、独立運動は沈静化した。ティロはスウェーデンに逃れて亡命政府を樹立し、兵士たちはリビア軍事訓練を受けた。再編されたGAMは1989年ごろから闘争を再開した。国軍とGAMの抗争は一般市民にも多くの被害を与え、憎悪をかき立てた[7]

1998年にスハルト政権からハビビ政権に移行し、インドネシア政府はアチェ州住民に謝罪し、アチェ特別州へのイスラム法の適用など融和策を示した。また、2002年にはアチェ特別州の名称を「ネガラ・アチェ・ダルサラーム[8]」へと改称した。

その後も武力闘争は続いたが、2004年12月のスマトラ沖大地震によるアチェの壊滅的な津波被害により、GAMは臨時休戦を宣言した[7]。この停戦を契機として2005年12月27日、GAMは、インドネシア政府と8月に締結された平和合意に基づき軍事部門の解散を宣言した。これにより、1976年以来29年間続いた独立運動は事実上終結した。

終結後

2013年3月2日アチェ州議会は自由アチェ運動を州旗に採用する案を議決した。インドネシア政府は採用を撤回するように求めたが、ザイニ・アブドゥラ州知事(元GAMメンバー)は要請を拒否。4月1日には採用を支持する住民によるデモ行進が行われた[9]

脚注

  1. ^ a b c Uppsala conflict data expansion. Non-state actor information. Codebook pp. 295–296
  2. ^ Global Security – Free Aceh Movement
  3. ^ a b c Michael L.Ross (2007). "Resources and Rebellion in Aceh , Indonesia" Archived 30 October 2008 at the Wayback Machine. (PDF), pp. 6. The World Bank.
  4. ^ ECP. Annuario 2006 de procesos de paz. Vicenç Fisas Archived 4 March 2016 at the Wayback Machine. pág. 75.
  5. ^ Paul, Christopher; Clarke, Colin P.; Grill, Beth; Dunigan, Molly (2013). “Indonesia (Aceh), 1976–2005”. Paths to Victory. RAND Corporation. pp. 403–414. ISBN 9780833081094. JSTOR 10.7249/j.ctt5hhsjk.47. https://www.jstor.org/stable/10.7249/j.ctt5hhsjk.47 
  6. ^ Indonesia agrees Aceh peace deal”. BBC News (2005年7月17日). 2008年10月11日閲覧。
  7. ^ a b c d 吉田 2012, pp. 575–582.
  8. ^ ネガラとは「国」の意味
  9. ^ “独立旗復活で対立 住民「平和を脅かす」アチェ州と中央政府”. じゃかるた新聞. (2013年4月3日). http://www.jakartashimbun.com/free/detail/10307.html 2015年1月3日閲覧。 

参考文献

  • Kell, Tim, The Roots of Acehnese Rebellion, 1989-1992, Cornell Modern Indonesia Project, 1995
  • 吉田一郎『消滅した国々:第二次世界大戦以降崩壊した183ヵ国』社会評論社、2012年。ISBN 9784784509706 

関連項目


アチェ独立運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/18 03:35 UTC 版)

アチェ統治法」の記事における「アチェ独立運動」の解説

詳細は「アチェ独立運動」を参照 インドネシア2002年5月東ティモールの独立経験しており、インドネシア政府アチェ州パプア州分離独立運動への対応は重要な課題であった遠藤によれば、この3つの地域独立運動にはそれぞれ異な背景存在した東ティモールインドネシア旧宗主国異なっており、インドネシアは旧オランダ領だが東ティモールは旧ポルトガル領であり1976年武力併合されていた。パプア州人種的な差異があり、インドネシア人マレー人が多いがパプア州ではメラネシアが多いことが背景にあった一方アチェ州背景にはイスラム教があった。インドネシアイスラム教徒が約9割を占めているもののイスラム教国教指定しておらず、イスラム教カトリックプロテスタントヒンドゥー教仏教5つ公認宗教としていた。アチェ州イスラム信仰の強い地域であったため、イスラム教国教指定していないインドネシア対し住民は強い不満を抱いていた。また、アチェ州歴史上独立」に積極的な傾向みられるとの指摘があり、例として19世紀後半にはオランダ支配最後まで抵抗し1945年からのインドネシア独立戦争ではインドネシア臨時政府一時的な拠点となり、また1948年からのイスラム教国樹立目指すダルル・イスラム運動英語版)に参加したことがあげられている。 また、東京大学の西芳美は、GAM治安当局対立する中で治安悪化し暴力事件多発したため、アチェ人々護身のためにGAM治安当局どちらか庇護下に入るしかなく、また国際社会アチェ分離独立するのかインドネシア統合されるのかという点に注目していたため、国際社会関心を引くにはGAM支持して分離独立求めるのか、それとも中央政府支持するのかの二択を選ぶ必要があったのだと主張している。

※この「アチェ独立運動」の解説は、「アチェ統治法」の解説の一部です。
「アチェ独立運動」を含む「アチェ統治法」の記事については、「アチェ統治法」の概要を参照ください。

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