アチェ戦争勃発とスルターンへの即位
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「ムハンマド・ダウド・シャー」の記事における「アチェ戦争勃発とスルターンへの即位」の解説
1864年にマンスール・シャー(英語版)の息子トゥアンク・ザイヌル・アブディンの息子として生まれる。1870年に祖父と父が急死したため、叔父マフムード・シャー(英語版)がスルターンに即位した。 かつて、アチェ王国はイギリスと手を結び勢力を拡大していたが、英蘭協約が締結されて以後はオランダの圧力が増し、1873年にアチェ戦争が勃発する。オランダ軍の前にアチェ軍は敗走し、1874年には王都コタラジャが陥落し、脱出したマフムード・シャーも同年1月28日にコレラで病死する。3日後、オランダ軍指揮官のヤン・ファン・スウィーテン(英語版)は戦争の終結とアチェの併合を宣言するが、オランダの支配に反発するアチェの民衆はゲリラ活動を開始する。 マフムード・シャーを喪ったアチェ政府は、ウラマーとウレーバラン(インドネシア語版)(領主)たちにより指揮されることになった。彼らは「カーフィルに対するジハード」を唱え、宗教面からの対オランダ闘争を呼び掛け、ムハンマド・ダウド・シャーが新しいスルターンに即位した。1875年3月4日には逃亡先のラム・トゥンゴウのモスクで戴冠式が挙行され、アチェ政府が健在であることを内外に誇示した。11歳のムハンマド・ダウド・シャーを補佐する摂政にはピディ(インドネシア語版)の貴族トゥアンク・ハーシムが就任し、1883年に親政が宣言されるまで国務を代行した。ムハンマド・ダウド・シャーは従兄弟トゥンク・アブドゥルマジドの娘トゥンク・ガバン・ガディンを后に迎え、この他にポチュ・マニャク・ムロン、トゥンク・ジャム・マニカムとも結婚した。
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