活動再開とDOM時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 18:14 UTC 版)
「自由アチェ運動」の記事における「活動再開とDOM時代」の解説
アチェでGAMの活動が再度活性化したのは1980年代半ばになってのことだった。ピディ県や北アチェ県ではゲリラ兵士が集められ、指揮官候補者はリビアに行き軍事訓練に参加するなど、武装蜂起の準備が進められた。井上治によれば、ハッサン・ティロはリビアの最高指導者カダフィ大佐の支援を獲得していたといい、1986年からリビアでアチェ独立運動軍約400人に軍事訓練を受けさせたのだという。1988年半ばにはピディ県の軍事施設が襲撃された。GAMの活動は過激化し、国軍からの武器強奪やジャワ人移住者への脅迫を行っていたという。当時のアチェ州知事イブラヒム・ハッサンはスハルト大統領に治安の早期回復が必要だと進言し、1989年、アチェ州は「軍事作戦地域」 (Daerah Operasi Militer) 、略称DOMに指定された。アチェ州には国軍の部隊が集中投入され、1992年までに主要なゲリラ幹部は逮捕もしくは射殺され、もしくはアチェ州外へと逃亡し、掃討作戦は成功したと考えられた。 国軍はその後もアチェに駐留していたが、1998年5月にスハルト政権が退陣すると翌月の6月に女性らが国軍兵士により暴行されたり夫を殺害されたりしたとジャカルタの国家人権委員会に告発し、DOM下で深刻な人権侵害が発生していたことが判明した。アチェ州知事もユスフ・ハビビ大統領にDOM指定を解除するよう提言した。同年8月、DOM指定を解除しアチェ州外からの増援部隊を撤退させると発表された。だが、同年10月、北アチェ県(英語版)に活動中のGAMグループが存在するとの報告があった。これ以降アチェ州では治安の悪化が進み、12月には東アチェ県(英語版)で国軍兵士7名の拉致が発生、翌年1999年3月からは公立学校や郡役場への連続放火、5月には巡回中の治安部隊を標的とした襲撃も発生した。これに対し、軍と警察は治安維持・回復作戦を実施したものの、失敗に終わった。5月3日に北アチェ県クルン・グクー地区で住民への発砲事件が発生し46名が死亡するなど、DOM時代同様に軍と警察による人権侵害事件が続いた。軍と警察がGAMが煽動行為をし発砲につながったなどと説明する一方、GAMは犯行を否定する声明を出した。治安維持・回復作戦は住民の支持を得ることができず、インドネシア内外からの批判を受けて8月18日に停止された。これにより、従来はピディ県、北アチェ県、東アチェ県を拠点としていたGAMはアチェ全域に活動範囲を広めることとなった。12月4日にはGAM設立とアチェ独立宣言33周年を記念して、独立宣言記念式典がアチェ各地で開催された。
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