和平後の政治参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 18:14 UTC 版)
和平合意によりGAMはアチェの政治に参加することが可能になったが、GAM指導部の中では政治参加について意見対立が発生した。古参幹部は地方政党を設立してそこからアチェ州首相選挙に候補者を出馬させようとしたのだが、彼らが擁立した候補者のハスビ・アブドゥラはスウェーデンに亡命していた古参幹部ザイニ・アブドゥラ(英語版)の弟だった。これに対し、アチェでの武力抗争を担っていた若手幹部は縁故による擁立だと批判し、GAMは2006年の首相選挙までに地方政党を結成することができなかった。結局、古参幹部は開発統一党(英語版)のフマム・ハミドを州知事候補、前述のハスビ・アブドゥラを副知事候補として擁立し、若手幹部はGAM幹部のイルワンディ・ユスフを州知事候補、アチェ住民投票情報センター (SIRA) 代表のムハンマド・ナザル(英語版)を副知事候補として擁立した。2006年12月11日、アチェ州首相選挙が実施されイルワンディ・ユスフが当選、翌年2月8日に就任した。 2007年3月16日、アチェの地方政党に関する細則を定めた政府規則が発令され、6月4日にGAMは軍事司令官を務めていたムザキル・マナフ(インドネシア語版)を党首としてアチェ独立運動党 (Partai Gerakan Aceh Merdeka、Partai GAM) の結党を宣言した。だが、翌年2007年の12月10日の政府規則により分離独立運動に使用されている旗やロゴの使用が禁止された。GAMは2008年2月23日にアチェ自立運動党 (Partai Gerakan Aceh Mandiri、Partai GAM) の党名で党結成の申請を再提出したが、政府は党名の再検討を求めた。ここでインドネシア平和インスティチュートが両者の仲介に入り同年4月6、7日に会談が行われ、4月22日にGAMはアチェ党に党名を変更した。翌年2009年にアチェ州議会選挙が実施されると、アチェ党は得票率46.91パーセントで圧勝し全69議席中33議席を獲得した。
※この「和平後の政治参加」の解説は、「自由アチェ運動」の解説の一部です。
「和平後の政治参加」を含む「自由アチェ運動」の記事については、「自由アチェ運動」の概要を参照ください。
- 和平後の政治参加のページへのリンク