和平工作の打ち切りとは? わかりやすく解説

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和平工作の打ち切り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)

多田駿」の記事における「和平工作の打ち切り」の解説

1938年昭和13年1月15日大本営政府連絡会議では、トラウトマン和平工作打ち切り主張する広田弘毅外相対し多田は「この機を逃せ長期戦争になる恐れがある」として交渉継続主張した。 従って当日連絡会議は、政府大本営の完全なる大利となり、多田次長参謀総長閑院宮載仁親王〕は皇族なるのゆえをもつて政府側の意見により列席せられず)は事の重大なるを指摘し速断避け、さらに支那最後確答を待つべき旨を強調せるに対し政府主張支那側の応酬ぶりには誠意認むべきものなし交渉打ち切り、我方の態度鮮明ならしむるを要すというにあり。 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より。太字引用者が付加多田を除く列席者は、次々に和平工作の打ち切りを主張した。 〔杉山陸相曰く期限まで返電なきは和平誠意なき証左なり。蒋介石相手にせず屈服するまで作戦すべし」 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より、 広田外相曰く永き外交官生活の経験照らし支那側の応酬ぶりは和平解決誠意なきこと明瞭なり。参謀次長外務大臣信用せざるか」 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より、 近衛総理曰く速やかに和平交渉打ち切り我が態度明瞭ならしむるを要す」 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より、 米内海相曰く政府外務大臣信頼す。統帥部が外務大臣信用せぬ同時に政府不信任なり。政府辞職の外なし」 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より、 列席者の中で唯一和平工作継続主張する多田は、涙ながらに訴えた。 〔多田次長曰く明治大帝は朕に辞職なしと宣えり。国家大の時期政府の辞職云々何ぞや」と声涙共に下る。 — 堀場一雄支那事変戦争指導史』より、 午前始まった大本営政府連絡会議は、ただ一人、和平工作の打ち切りに反対する多田抵抗によって夕刻まで続いた政府側は、内閣総辞職何度も示唆することで多田説得図ったという(児島襄天皇III 二・二六事件』より)。大本営政府連絡会議結論は「和平工作の打ち切り」であった多田最後発言記録されている。 参謀本部としてはこの決議〔和平工作の打ち切り〕には同意しかねるが、しかしこれがために内閣が潰れることになれば国家的にも非常に不利であるから黙過して、あえて反対唱えない。 — 多田駿発言井本熊男支那事変作戦日誌』より、 多田在任した一年強の期間、参謀本部不拡大方針でいた。また、杉山元陸相更迭盛んに主張していた。 翌16日近衛首相は「以後蔣介石交渉相手としない」旨を宣言した第一次近衛声明)。

※この「和平工作の打ち切り」の解説は、「多田駿」の解説の一部です。
「和平工作の打ち切り」を含む「多田駿」の記事については、「多田駿」の概要を参照ください。

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