和平工作の打ち切り
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1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、多田は「この機を逃せば長期戦争になる恐れがある」として交渉継続を主張した。 従って当日の連絡会議は、政府対大本営の完全なる大利となり、多田次長(参謀総長〔閑院宮載仁親王〕は皇族なるのゆえをもつて政府側の意見により列席せられず)は事の重大なるを指摘し、速断を避け、さらに支那側最後の確答を待つべき旨を強調せるに対し、政府の主張は支那側の応酬ぶりには誠意の認むべきものなし。交渉を打ち切り、我方の態度を鮮明ならしむるを要すというにあり。 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より。太字は引用者が付加、 多田を除く列席者は、次々に和平工作の打ち切りを主張した。 〔杉山〕陸相曰く「期限まで返電なきは和平の誠意なき証左なり。蒋介石を相手にせず屈服するまで作戦すべし」 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より、 広田外相曰く「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか」 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より、 近衛総理曰く「速やかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭ならしむるを要す」 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より、 米内海相曰く「政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より、 列席者の中で唯一、和平工作の継続を主張する多田は、涙ながらに訴えた。 〔多田〕次長曰く「明治大帝は朕に辞職なしと宣えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は何ぞや」と声涙共に下る。 — 堀場一雄『支那事変戦争指導史』より、 午前に始まった大本営政府連絡会議は、ただ一人、和平工作の打ち切りに反対する多田の抵抗によって夕刻まで続いた。政府側は、内閣総辞職を何度も示唆することで多田の説得を図ったという(児島襄『天皇III 二・二六事件』より)。大本営政府連絡会議の結論は「和平工作の打ち切り」であった。 多田の最後の発言が記録されている。 参謀本部としてはこの決議〔和平工作の打ち切り〕には同意しかねるが、しかしこれがために内閣が潰れることになれば国家的にも非常に不利であるから黙過して、あえて反対は唱えない。 — 多田駿の発言。井本熊男『支那事変作戦日誌』より、 多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた。また、杉山元・陸相の更迭を盛んに主張していた。 翌16日、近衛首相は「以後蔣介石は交渉相手としない」旨を宣言した(第一次近衛声明)。
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