堀場一雄
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堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日[1] - 1953年(昭和28年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。
愛知県東春日井郡篠木村(現・春日井市)出身[2]。父は警察官の堀場司馬次郎[2]。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。娘は詩人・女性史研究家の堀場清子[3]。
経歴
- 1914年(大正3年)9月 名古屋陸軍地方幼年学校入学
- 1918年(大正7年)7月 同校・卒業(台賜の銀時計)
- 9月 陸軍中央幼年学校入学
- 1920年(大正9年)3月 同校・卒業
- 10月 陸軍士官学校入学(第34期)
- 1922年(大正11年)7月 同校・卒業
- 1925年(大正14年)10月 任歩兵中尉
- 1927年(昭和2年)12月 陸軍大学校入学
- 1929年(昭和4年)12月28日 広島市の医師・今井一の長女と結婚[4]
- 1930年(昭和5年)11月 同校・卒業(42期恩賜)
- 1931年(昭和6年)8月 任歩兵大尉
- 10月 補参謀本部付将校(作戦課兵站班付)
- 1932年(昭和7年)12月 補参謀本部部員(作戦課兵站班)
- 1934年(昭和9年)4月 補陸軍省軍務局附
- 1935年(昭和10年)1月下旬 ワルシャワに滞在[6]
- 1936年(昭和11年)3月 陸軍省新聞班長への転補により帰国する大使館附武官秦彦三郎に随行し、シベリア鉄道でウラジオストクへ向かう[9]
- 1937年(昭和12年)2月下旬 帰国[11]
- 1939年(昭和14年)3月 任航空兵中佐
- 1941年(昭和16年)6月 補陸軍省軍務局御用掛、総力戦研究所所員
- 8月 任陸軍大佐
- 1942年(昭和17年)8月 補浜松陸軍飛行学校教官
- 11月 補飛行第62戦隊長
- 1943年(昭和18年)10月 補第2方面軍参謀(作戦、濠北)
- 1944年(昭和19年)3月 補南方軍参謀(作戦、南方)
- 6月 補第5航空軍参謀副長(支那、朝鮮)
- 1945年(昭和20年)8月22日 補陸軍省軍務局附
- 11月30日 待命
- 12月1日 予備役
- 1946年(昭和21年)1月 第一復員省大臣官房史実調査部[12]
- 1947年(昭和22年)4月30日 復員局を退官、嘱託として勤務[15]
- 1953年(昭和28年)4月1日 史実研究所顧問[16]
著書
(堀場の遺稿をもとに、死後刊行)
- 『支那事変戦争指導史』、時事通信社、1962年。
脚注
- ^ 「堀場一雄」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社 。コトバンクより2025年6月29日閲覧。
- ^ a b 『ある作戦参謀の悲劇』p.8。
- ^ 『日本歴史』2025年6月号(No.925)、吉川弘文館、p.123。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.52。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』pp.93-103。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.103。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.104。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.114。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.121。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.122。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.138。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.382。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.389、p.392。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』pp.384-387。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.392。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』p.405。
- ^ 『ある作戦参謀の悲劇』pp.409-410。
参考文献
- 芦澤紀之著『ある作戦参謀の悲劇』、芙蓉書房、1974年。
固有名詞の分類
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