服部卓四郎との関わりとは? わかりやすく解説

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服部卓四郎との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 01:09 UTC 版)

井本熊男」の記事における「服部卓四郎との関わり」の解説

服部卓四郎とは戦前から上司部下の関係でつながりをもっていたが、戦後復員省部署は違うものの同じ場所で勤務していた。 この際服部からは独立国である以上、必ず再軍備の時が来るだろうから、その研究必要な同志人選を頼むと任された。 井本参謀本部員の原四郎陸軍省軍事課員の稲葉正夫といった面々誘い同志とした。 その後、、服部あわせて三十四期の三羽烏」と称され西浦進堀場一雄加わり、これがいわゆる服部グループ呼ばれる集まりとなる。 このグループ再軍備研究行ったほか、極東国際軍事裁判における東條英機をはじめとしたA級戦犯弁護資料作成なども行った。 特に、東條陸軍大臣秘書官だった西浦服部井本三人東條死刑執行後、東條家弔問し、その後追悼法要欠かさず参列していた。 朝鮮戦争起こって戦況悪化すると、服部グループ再軍備になった際に必要な中堅幹部として元陸軍軍人400500名を選定し、その一部には政府から要請があれば承諾するよう働きかけるなどの活動行ったが、最終的にこれは身を結ばなかった。 しかし、井本自身辰巳栄一率い辰巳機関人選により、1952年昭和27年)に警察予備隊入隊した。 この時期服部グループは「大東亜戦争全史」の編纂行っていたが、井本自身前述国際軍事裁判法廷活動や、警察予備隊仕事、そして病にかかるなどしていたため、原稿審議一部分加わったのみであったその後服部グループ史実研究所という団体作り鳩山一郎中曽根康弘といった政治家下村定小沢治三郎といった旧陸海軍高官交流するなど、活発に活動していたほか、米軍防衛庁調査助言等を行っていた。 井本史実研究所一員として活動していたが、服部1960年昭和35年)に死去し、その一年後井本自衛隊退官すると、史実研究所責任者として活動するようになったその後米軍との関係が1965年昭和40年)頃には途絶えたことや、井本自身も健康を害したことで、所蔵していた資料防衛研修所戦史室に移し1971年昭和46年3月31日をもって史実研究所解散した

※この「服部卓四郎との関わり」の解説は、「井本熊男」の解説の一部です。
「服部卓四郎との関わり」を含む「井本熊男」の記事については、「井本熊男」の概要を参照ください。

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