和平成立後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:22 UTC 版)
「アッバース朝の小アジア侵攻 (806年)」の記事における「和平成立後の経過」の解説
ニケフォロスはあなたが与えた休戦に背いた。だが運命の女神の紡ぎ車は彼に逆らう。...ニケフォロス、カリフが去って再度裏切るというのなら、それは其方自身の無知と盲目のためだ。...ニケフォロスはジズヤを払い、剣への恐怖から頭を垂れた。死は彼が恐れるものであるが故に。 ニケフォロスに対するハールーンの遠征を讃える名前不詳の宮廷詩人の詩 和平条件の合意の後、二人の統治者の間に友好的な交流があったことがタバリーによって触れられている。ニケフォロス1世は、ヘラクレアが陥落した際に拘束された息子のスタウラキオスの花嫁候補の一人である若いビザンツ人の女性といくつかの香水をハールーンに求めた。タバリーによれば、 ハールーンは奴隷の少女を探し出すように命じた。少女は連れ戻されて美しい衣装で着飾られ、ハールーン自身が滞在していた天幕の席に座らされた。奴隷の少女は天幕とその建具や器などの付属品とともにニケフォロス1世の使者に引き渡された。また、ハールーンはニケフォロス1世が要求した香水を送り、さらにはナツメヤシの実、ゼリーの菓子、レーズン、そして治療薬を送った。 ニケフォロス1世は返礼として、馬に積み込んだ50,000枚の銀貨、100着のサテン地の衣服、200着の高価なブロケードの衣装、12羽のハヤブサ、4頭の狩猟犬、そして3頭の馬を送った。しかし、ニケフォロス1世はアラブ軍が撤退するとすぐに国境地帯の砦を修復し、その後に貢納金の支払いを停止した。テオファネスは、ハールーンが突如小アジアへと戻り、報復としてテバサを占領したと記録しているが、これを裏付ける証拠は存在しない。 アラブ人は翌年に一連の報復攻撃を開始したものの、ヤズィード・ブン・アル=フバイリー・アル=ファザーリーが指揮した春の襲撃はヤズィード自身が戦死する完全な敗北に終った。ハルサマ・ブン・アーヤーン(英語版)の下でのより大規模な夏の襲撃はニケフォロス1世が直接対峙し、決着がつかないまま両軍は撤退した。その後ビザンツ軍はマラシュ地方を襲撃することで反撃し、一方、アラブ軍は夏の終わりにフマイドが率いる大規模な海軍による襲撃を開始した。フマイドはロードス島を略奪し、ペロポネソス半島まで到達したものの、帰還時に何隻かの船を嵐によって失った。なお、アラブ艦隊はこの遠征の頃にペロポネソス半島で発生したスラヴ人の反乱を扇動していた可能性もあると考えられている。 807年のビザンツ帝国に対するこれらのアッバース朝の試みは、ハールーンが再び東に向かうことを余儀なくされたホラーサーンにおけるラーフィー・ブン・アッ=ライス(英語版)の反乱の発生によってさらに困難の度合いを増すことになった。ハールーンは新たな休戦を成立させ、808年に別の捕虜交換がラモス川で行われた。こうしてニケフォロス1世は、国境の要塞の修復と貢納の停止の両方を止めることなく利益を得ることになった。
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