対エジプト政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:13 UTC 版)
「シュッピルリウマ1世」の記事における「対エジプト政策」の解説
シリア南部は伝統的にエジプト歴代王朝の宗主権の下に置かれており、当時はエジプト第18王朝が影響力を行使していた。ヒッタイトとエジプトの国境地帯に存在したアムル王国もエジプトに従属していた。エジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)の生前、国境はオロンテス川以南とアムル王国までをエジプトの影響下とすることでまとまっていた。当時のアムル王国(英語版)の王アジル(英語版)は親エジプトの姿勢を当初は示していたが、エジプトでアメンホテプ4世(アクエンアテン)が宗教改革などのため内政重視の姿勢を取っていたのを好機としてシュッピルリウマ1世はアムル王国に圧力をかけ、アジル王に対しヒッタイトの宗主権を認めさせることに成功した。その一方でアマルナ文書にはアメンホテプ4世に宛てたシュッピルリウマの粘土板文書も含まれており、父王アメンホテプ3世以来のヒッタイト・エジプト間の友好関係維持を希望している。 アメンホテプ4世の死後、シュッピルリウマ1世の下に王子ザンナンザとアメンホテプ4世の未亡人ダハムンズ(英語版)との縁談が持ち込まれ、話をまとめてザンナンザをエジプトへ派遣したが、その途上でエジプトの将軍ホルエムヘブ(後にエジプトで王位を簒奪する)によってザンナンザは暗殺された。王子ザンナンザの死に激怒したシュッピルリウマ1世は、エジプト侵攻を決意し、王子アルヌワンダ2世に命じてエジプト領アムカやカナンを攻撃させ、これを征服した。
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