対エフタル第一次・第二次戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
「ペーローズ1世」の記事における「対エフタル第一次・第二次戦争」の解説
ペーローズ1世とエフタルの戦争に関する情報は、同時代史料であるシリア語で書かれた『塔登者偽ヨシュアの年代記(英語版)』と東ローマ帝国の歴史家であるプロコピオスの記録によって伝えられている。しかしながら、どちらの史料にも誤りや情報の欠落が多くみられる。偽ヨシュアによれば、ペーローズ1世はエフタルと三回戦争をしているが、これらの戦争に関する記述はごく僅かである。一方のプロコピオスによる説明は詳細であるものの、二つの戦争についてしか触れていない。現代の多くの歴史家はペーローズ1世がエフタルと三回戦ったことに同意している。 キダーラ朝が放逐されたことで、その従属勢力であったエフタルはトハーリスターン東部に拠点を築き、権力の空白に乗じてトハーリスターン全域に支配を広げた。エフタルの首都はトハーリスターン東部のクンドゥーズの市街地付近であった可能性が最も高く、中世の学者のビールーニー(1048年没)はその場所をワル=ワリズと呼んでいる。エフタルの王はしばしばフシュナヴァーズ(英語版)という名前を与えられているが、イラン学者のホダーダード・レザーハーニー(英語版)によれば、これは恐らくエフタルの王たちが用いていた称号であり、イフシード(英語版)やアフシーン(英語版)といった当時の中央アジアで用いられていた他の称号に類似するものであった。ペーローズ1世はエフタルの拡大を阻止するべく474年にエフタルを攻撃したが、グルガーン(英語版)の国境付近で奇襲に遭い捕らえられた。東ローマ皇帝ゼノンは身代金を支払ってペーローズ1世を解放し、サーサーン朝とエフタルの良好な関係の回復に手を貸した。プロコピオスによれば、フシュナヴァーズはペーローズ1世の解放と引き換えに自分の前で平伏すように要求した。ペーローズ1世は祭司たちの助言に従って夜明けにフシュナヴァーズに会い、フシュナヴァーズの前で平伏したように見せかけたが、実際には昇る太陽、すなわち太陽神ミスラの前に平伏した。 ペーローズ1世は470年代末か480年代初頭にエフタルに対する二度目の軍事行動に乗り出したものの、再び敗れて捕らえられる結果に終わった。捕虜となったペーローズ1世は身代金として30頭のラバに積み込んだドラクマ銀貨を支払うと申し出たが、20頭分しか支払うことができなかった。残りの金額は用意できず、残金が支払われるまでの人質として482年に末子のカワード(後のカワード1世)をエフタルの宮廷に送った。リチャード・ペインは、「この時に要した金額は古代末期の外交的な協力金や国家歳入と比較すれば僅かなものだった。しかし、ペルシアの宮廷からフン族に貢物を届けるキャラバンについての噂は、ペルシアと地中海世界を通じてガリアのシドニウス・アポリナリスの所まで広まった」と述べている。この後、フシュナヴァーズは鳥翼と三つの三日月型の形状物を配した王冠を被った自身の硬貨を鋳造したが、これはペーローズ1世の第三の王冠であり、エフタルの王が自分をペルシアの正当な支配者と見做していたことを示している。ペーローズ1世はラバ10頭分の銀貨を調達するために臣民に人頭税を課し、エフタルに対する三度目の軍事行動(後述)を起こす前にカワードを解放させた。
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