対オスマン帝国の外交策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「対オスマン帝国の外交策」の解説
フメリニツキーの乱が始まった1648年以来、ウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和国と対等に戦うために隣国の中から頼れる同盟者を求めていた。最初の段階でフメリニツキーは、生活様式でコサックにもっとも近い存在であったクリミア・ハン国のタタールと同盟を結び、1648年から1653年にかけて諸戦において勝利したが、タタールは自らの国益を追求してポーランドを弱めながら、コサックのウクライナが強固にならないことに努めた。クリミアのタタールは、1649年のズボーリウと1651年のベレステーチコの決戦場でコサックを裏切ったことがあり、さらにコサックの領内で奴隷狩りを行ってコサックの経済と支持層を損壊しつつあった。そのためフメリニツキーは別の同盟者を捜し求め、1648年末からオスマン帝国に目を向けた。1650年の夏にコサックとオスマン帝国は互いに公式な使節団を派遣し、コサックのウクライナは当時オスマン帝国が支配していたクリミア・モルドバ・ワラキア・トランシルヴァニアの隣国と同様な形でオスマン帝国の保護国になることが思案された。それにフメリニツキーは、オスマン帝国に接近するために、1652年の春にモルドバ公国のヴァシーレ・ルプ主君の息女ルクサンドラと自分の息子ティモフィーイを結婚させ、コサックの棟梁をオスマン帝国の支配下にいた諸君主の範囲に入れようとした。1651年初めにオスマン帝国のメフメト4世は、フメリニツキー宛てにウクライナを保護国にする約束状を送り、さらに、1653年5月下旬にフメリニツキーのために保護国の統治者の標章を遣わしたが、ウクライナの正教会の聖職者がオスマンの保護を受けることに強く反対し、その上、フメリニツキーの子息がモルドバの内戦で反オスマンの勢力を支持して無断でオスマン帝国の保護国のワラキアに攻め入ったため、フメリニツキーによるオスマンとの外交政策は失敗に終わり、ウクライナがオスマン帝国の保護下に置かれることはなかった。 ヴァシーレ・ルプ(モルドバの君主) メフメド4世(オスマン帝国の皇帝) アレクセイ(ロシアのツァーリ)
※この「対オスマン帝国の外交策」の解説は、「フメリニツキーの乱」の解説の一部です。
「対オスマン帝国の外交策」を含む「フメリニツキーの乱」の記事については、「フメリニツキーの乱」の概要を参照ください。
- 対オスマン帝国の外交策のページへのリンク