対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 13:46 UTC 版)
「帝国クライス」の記事における「対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件」の解説
1519年に皇帝に即位したカール5世は、1521年に帝国統治院を復活させ、帝国最高法院に新たな法的基盤を与えた。そうした上で、翌1522年にラントフリーデ令(クライス令)を発し、帝国統治院の執行機関としてクライスを位置づけた。クライスの指揮官を臨時職から恒常職とし、平和破壊活動の現行犯に対しては帝国レベルでの裁判を待つことなくクライスレベルで処遇を決定することを可とするなど、クライスの権限は大幅に増強されたが、その本体となる帝国統治院は早くも1524年には活動を停止し、1530年に廃止された。 ところが、1530年にアウクスブルク帝国議会で決議された対オスマン帝国軍の編成に際し、帝国等族の分担兵がクライス毎に編成され、クライスの定めた集合地に派遣され、クライス指揮官の指揮下に置かれた。この時点で、クライスは帝国統治院の執行機関であるのだが、本体である帝国統治院が機能していないにもかかわらず軍編成の基盤となっていることは、注目に値する。 ただし、この時、実際にクライス会議を開いたのは、バイエルン、シュヴァーベン、フランケン、オーバーラインの4つのクライスだけで、他は帝国等族間の宗教対立などによりクライス会議すら開けない状態にあった。また、オーバーライン・クライスではクライス会議は開催されたものの、有力な帝国等族であるヘッセン方伯フィリップ1世とシュトラスブルクが欠席し、結局、軍の徴集ができない事態に陥っていた。この時は、オスマン帝国との間に休戦条約が締結されたため、実際に派兵は行われなかった。 1532年、休戦条約失効に伴い新たな軍の編成が必要であり、まず7月に宗教問題は1532年以後最初の帝国議会で優先的に協議するという内容の「ニュルンベルクの和約」によって宗教対立を棚上げした後、7月15日にクライス会議を行い、8月に軍を集結することが決議された。前述のオーバーライン・クライスでも、今回は帝国議会の決議通り7月15日にクライス会議が開催され、軍の派遣が決議された。 このように、帝国クライスは定着したかに見えたが、これは帝国議会の命令下のことであって、地方の自主的な平和維持活動という本来の目的では未だにその機能を十分に果たしているとはいえない状態にあった。それは1534年に再洗礼派教徒がミュンスターを占拠した事件に示されている。1522年のラントフリーデ令に従えば、ミュンスターが属すヴェストファーレン・クライスに治安回復の権限および義務があるのだが、実際にはクライス単位での支援は行われず、近隣の帝国等族による援助提供が議論された。 しかしその援助規模では十分でないと判断したケルン選帝侯およびユーリヒ大公は、これをマインツでの選帝侯会議に諮った。この会議でようやく、ヴェストファーレン、クールライン、オーバーライン、オーバーザクセンの4クライス合同会議が決定され、開催されたのであるが、該当クライスの帝国等族187人中、出席したのは40人に過ぎなかった。あまりの出席率の悪さに、翌1535年4月に全10クライスの合同会議が招集されたが、これも出席率が悪く、さらに10月に再度行われた合同会議も同様の結果に終わった。1532年の対オスマン帝国軍招集と1534年のミュンスター占拠事件から、 平和破壊活動に対する援助提供は、まず近隣の帝国等族に期待され、それが不十分なときにだけ、選帝侯会議経由で帝国クライスの関与が議論されること 帝国クライスは積極的・自主的な意思決定能力を持たず、皇帝や有力な帝国等族に利用されている状態にあったこと 宗教対立で機能不全に陥っていた帝国議会の替わりに、帝国レベルの実務処理機関としての役割が期待されるようになっていたこと が浮き彫りとなっている。
※この「対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件」の解説は、「帝国クライス」の解説の一部です。
「対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件」を含む「帝国クライス」の記事については、「帝国クライス」の概要を参照ください。
- 対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件のページへのリンク