対エフタル第三次戦争と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
「ペーローズ1世」の記事における「対エフタル第三次戦争と戦死」の解説
ペーローズ1世は貴族や聖職者たちの忠告に逆らってグルガーンでエフタルに対する三度目の遠征の準備を始めた。ガザル・パルペツィは、ペルシア軍はほとんど反乱を起こす寸前になるほどエフタルと対峙する可能性を前にして士気を失い、兵士たちがこの軍事作戦に反発していたことを強調している。ペーローズ1世は兄弟のバラーシュを残して帝国の統治を任せ、484年に大軍を率いてエフタルへの軍事行動を開始した。ペーローズ1世の遠征を知ったフシュナヴァーズは、「貴殿は押印した文書の下で私と和議を結び、私に対して戦争を起こさないと約束した。そして我々はいずれの側からも敵意を持って踏み越えることのないように共有する境界線を定めたのだ。」という伝言とともに自分の副官を派遣した。 ペーローズ1世は祖父のバハラーム5世が国境を示す標識としてオクサス川のほとりに建てた塔を移動させた。この出来事は中世の歴史家のアブー・ハニーファ・ディーナワリー(896年頃没)とタバリー(923年没)によって言及されている。タバリーによれば、ペーローズ1世は互いに結び付けられた300人の男たちと50頭の象を塔に繋ぎ、兵士たちの前方へ引きずらせて移動させ、自分は移動する塔の後ろを歩いて祖父が結んだ講和条約を破っていないかのように装った。また、ペーローズ1世と直接対決する気のなかったフシュナヴァーズは戦場を横切るように大きな塹壕を掘らせて低木やばらばらの木材で隠し、その後ろに兵を配置させた。そしてフシュナヴァーズの軍隊に突撃したペーローズ1世とその部隊は塹壕に落ちて殺害された。ペーローズ1世やその兵士たちの遺体はサーサーン朝側では回収されなかった。多くの著名なサーサーン朝の貴族たちが戦死し、その中には4人のペーローズ1世の息子か兄弟も含まれていた。戦場となった場所ははっきりとしていないものの、現代の歴史家であるクラウス・シップマン(ドイツ語版)は、戦闘は今日のアフガニスタンの恐らくはバルフ近郊で起こったとしている。 一方でペーローズ1世を敵対的に描いている偽ヨシュアは、ペーローズ1世は塹壕から脱出することができたものの、その後、山中の岩の裂け目で餓死したか、森で野獣に殺されて食べられたのではないかとする説を示している。
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