対オスマン戦争、セルビア王位の後継者
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「ステファン・ウロシュ2世ミルティン」の記事における「対オスマン戦争、セルビア王位の後継者」の解説
アルバニア北部に進出したセルビアはデバルを占拠して国境をドゥラッツォ付近の沿岸部にまで拡大し、1296年には既にドゥラッツォを制圧していた。 1312年のガリポリの戦い(en:Battle of Gallipoli (1312))では、セルビアはオスマン帝国と戦うアンドロニコス2世に援軍を送った。ビザンツではオスマン帝国を抑えようとする多くの試みがなされたが、急速な分裂状態に陥っているビザンツはセルビアの助けを必要としていたのである。オスマン軍は辺境地帯で略奪を行い、ビザンツとオスマンの両軍はガリポリ半島で交戦、ビザンツ側はオスマンに大勝を収めた。セルビアは協力の対価として、ビザンツよりKucovoの町を割譲された。 ドラグティンが没した1314年に、ウロシュ2世はドラグティンの領地の大部分を接収し、その中にはベオグラードも含まれていた。しかし、1319年にハンガリー王カーロイ1世によってベオグラードの支配権は奪回される。また、同1314年に王子のデチャンスキが彼に対して反乱を起こすと、ビザンツの力を借りて反乱を鎮圧し、デチャンスキの視力を奪ったうえでコンスタンティノープルに追放した。ウロシュが追放されて以降はウロシュ2世の末子であるステファン・コンスタンティンが次期セルビア王と見做されるようになるが、1321年の春にウロシュ2世の許しを受けたデチャンスキが帰国する。
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