対カタリ派・破門解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:21 UTC 版)
「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の記事における「対カタリ派・破門解除」の解説
ヴェローナからそれほど遠くないガルダ湖の町シルミオーネの近くには、異端者の大規模なコミュニティのカタリ派(アルビジョワ派とも)とパタレニ派(Patareni)があった。これらは当時町を精神的にも、行政的にも支配しており、司教によって統治されながら町のすべての権力をその手に集約していた。異端審問所は、状況確認のためまずシルミオーネに数人の審問官を送り込んだ。異端の者たちが力を有しているのを見て、ヴェローナの司教フラ・ティミド(fra' Timido)は、トゥールーズのカタリ派司教ベルナルド・ディ・オリバ(Bernardo di Oliba)の支援を受けて、カタリ派の有力司教ロレンツォ(Lorenzo)を阻止すべくシルミオーネへの軍事作戦を推進した。マスティーノの弟アルベルトは、ヴェローナの民兵と共にカトゥルスの街に向けて出発し、短期間の包囲の後、これを陥落せしめることに成功した。異端の者たちは捕らえられ、兄の下でヴェローナの牢獄に連行された。アルベルトは安全を害することなく、厳しいながらも過度の処罰を加えることなく拘留した。アルベルトは数年後アレーナで行われた166人の処刑を指揮、この親カトリック的な行動とニコラウス4世との和解の上でヴェローナは破門を解かれることとなった。
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