対オーストリア契約事件(羅文幹事件)
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「羅文幹」の記事における「対オーストリア契約事件(羅文幹事件)」の解説
しかし、同年11月、対オーストリア契約事件(羅文幹事件)が発生した。この事件は、財政総長として羅文幹が1914年に結んだ戦艦購入契約の後処理を担当した結果発生したものである。対ドイツ・オーストリア宣戦で棚上げされていた当該契約につき、オーストリアは契約の履行を強く迫ってきたが、羅は国交回復を機会に妥結に持ち込んだ。 ところがその過程につき、国会衆議院議長呉景濂は、羅にオーストリアからの収賄行為があったと糾弾する。総統黎元洪もこれを容れて、独断により羅を逮捕・収監してしまったのである。これにより、王寵恵内閣は崩壊に追い込まれてしまった。 内閣は崩壊に追い込まれたものの、王寵恵らは、正規の司法手続を踏まずに羅文幹逮捕命令を発した黎元洪への非難を表した。黎もまた後悔して釈放しようとしたが、羅はこれを拒絶し、法廷で自らの立場を示すことを要求した。1923年(民国12年)7月、羅は無罪判決を受けて釈放された。 しかし、司法総長程克はこれを不服とし、上訴を行ったため、羅文幹は再び収監された。この程の行動に全国の司法界は激昂し、修訂館館長江庸は抗議の辞任を行っている。結局、翌年春に上訴は却下され、羅文幹事件はようやく決着した。その後、羅は北京で弁護士を開業している。1926年(民国15年)7月には、杜錫珪臨時内閣で署理司法総長、翌年1月からの顧維鈞臨時内閣では正式に司法総長を務めた。
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