対オランダ独立戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 22:36 UTC 版)
「インドネシア共産党」の記事における「対オランダ独立戦争期」の解説
1930年代から太平洋戦争期にかけてのPKIは地下活動を余儀なくされたが、太平洋戦争が終結し、その直後にインドネシア独立が宣言されると、インドネシア社会党、マシュミなどの政党が結成され、またインドネシア国民党などとともに、PKIも1945年10月に再建された。 しかし、東インドの宗主国オランダは、インドネシアの独立を認めなかった。国内各地でインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とオランダ軍とのあいだで武力衝突が頻発した。その一方で、インドネシアの大統領スカルノ、副大統領ハッタ、そして初代首相シャフリルら共和国の首脳部はオランダとの外交交渉によって、インドネシアの独立を勝ち取ろうとしていた。 PKIの活動家はこうした外交路線を批判し、オランダに対する徹底抗戦によって独立を達成すべきと主張し、政府と対立した。1946年1月、党幹部の1人タン・マラカは徹底抗戦に賛同する諸団体を糾合して闘争同盟を結成し、政府首脳部に圧力をかけたが、オランダとの交渉環境の悪化を危惧した政府は、タン・マラカら闘争同盟の幹部を逮捕し、同盟組織を崩壊させた。 1948年8月、ソ連に亡命していたPKI幹部ムソ(英語版)が帰国し、党の主導権を握ると、ふたたび徹底抗戦派および左派勢力を糾合し、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。政府と左派勢力の対立で国内に緊張感が高まるなか、1948年9月、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した。ムソら党幹部も急ぎマディウンに駆けつけ、国内は深刻な内戦の危機に直面した。しかし、共和国政府側の対応は早く、スカルノがラジオ演説で政府支持を国民に訴え、政府支持派の国軍部隊がマディウンを制圧し、混乱を収拾することに成功した。その後、PKI幹部の多くが逮捕され、また混乱のさなかでタン・マラカ、ムソは殺害された。以上のマディウン事件によって幹部の多くを失ったPKIは、組織的に弱体化を余儀なくされた。 対オランダ独立戦争については「インドネシア独立戦争」を参照
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