ムスタアリー
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アブル=カースィム・アフマド・ブン・アル=ムスタンスィル(アラビア語: أبو القاسم أحمد بن المستنصر, ラテン文字転写: Abu'l-Qāsim Aḥmad b. al-Mustanṣir, 1074年9月16日 - 1101年12月12日)、またはラカブ(尊称)でアル=ムスタアリー・ビッラーフ(アラビア語: المستعلي بالله, ラテン文字転写: al-Mustaʿlī Biʾllāh,「神に育てられし者」の意)は、第9代のファーティマ朝のカリフである(在位:1094年12月29日 - 1101年12月12日)。
注釈
- ^ a b イマームとはイスラーム共同体(ウンマ)における預言者ムハンマドの後継者としての精神的指導者を指す[22]。イスラーム時代初期の複数の内戦を経て主流となったスンニ派はムハンマドの後継者としてカリフを信奉したが、指導者の地位に関しては必要最小限の条件しか求めなかった[23][24]。一方でシーア派は、イマームが唯一の神によって与えられた他に有する者のいない属性を持つ神の生ける証拠(フッジャ)であり、神によって導かれるムハンマドの後継者であるとするイマームの概念を徐々に発展させていった。また、イマームの地位は最初のイマームとされるムハンマドの娘婿のアリー・ブン・アビー・ターリブを含むムハンマドの子孫のみが受け継ぐものとされた[25][26]。そのシーア派は765年のジャアファル・アッ=サーディクの死後に十二イマーム派の系統とイスマーイール派の系統に分裂した。十二イマーム派はムーサー・アル=カーズィムを7代目のイマームとして信奉したが、874年に幽隠(ガイバ)に入った12代目のイマームであるムハンマド・アル=マフディーを最後にイマームの系譜が途絶えたとされ、この最後のイマームはメシアとしての復活が待望されている[27]。一方のイスマーイール派はムーサー・アル=カーズィムの兄であるイスマーイール・ブン・ジャアファルの子孫をイマームとして信奉し、イスマーイール派のイマーム位は最終的にファーティマ朝へ継承されていった[28]。
- ^ ムスタンスィルはその長い治世の間に多くの子供を儲けたが、子供の名前を完全に網羅した一覧は存在しない。さらに息子たちの多くが名前の一部を共有しているため、それぞれの息子を識別することは困難である。歴史家のポール・E・ウォーカーは、「名前を復元できる息子は少なくとも17人存在する」と指摘している[5]。
- ^ 後継者の指名に関する概念(ナッス)は初期のシーア派、特にイスマーイール派のイマームにおける中心的な概念であるが、この概念は現実には複雑な問題も引き起こした。シーア派のイマームは神の無謬性(イスマ)を有するとされていたことから、特に後継者や将来のイマームの選定といった重要な問題について過ちを犯すことはないであろうと考えられていた。このような背景においては、指名された後継者が父親よりも先に死去した場合に非常に大きな困惑をもたらすことから、父親の治世中にある世継ぎが明らかに有利な立場にあったとしても、しばしばナッスは統治者であるイマームの死の直前まで保留されたり、イマームの遺言において公表されたり、第三者による同意の下で遺産として残されたりする場合があった[13]。
- ^ a b 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけでなく、宗教的少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[19]。
- ^ フトバで支配者の名前を読み上げることは近代以前の中東地域において支配者が持っていた二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[49]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[50]。
出典
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