ニザール派の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)
1095年、イスマーイール派第18代イマーム、すなわちファーティマ朝第8代カリフ・アル=ムスタンスィル・ビッラー(英語版)の没後、イスマーイール派はそのカリフ=イマーム位を巡って二派に分裂した。当初は兄ニザール(英語版)が継承することとなっていたが、当時のファーティマ朝において全権を握る宰相アル=アフダル・シャーハンシャー(英語版)は、妹婿でニザールの弟アフマドをアル=ムスタアリー・ビッラー(英語版)として登極させた。ニザールはこれに反発してアレクサンドリアで反乱を起こした。このときニザールを支持した人びとを後代ニザーリーヤ、すなわちニザール派と呼ぶ。反乱自体は早期に鎮圧され、ニザールもカイロに幽閉された後、1098年までには没してしまった。 当時のイスマーイール派は本拠地エジプトにおけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、中央アジア、イラン、イエメン、シリアなどに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロのダアワとの絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。
※この「ニザール派の成立」の解説は、「ニザール派」の解説の一部です。
「ニザール派の成立」を含む「ニザール派」の記事については、「ニザール派」の概要を参照ください。
- ニザール派の成立のページへのリンク