ニザール派政権の確立
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ファーティマ朝との関係を絶ったあと、ハサニ・サッバーフはイラン各地のイスマーイール派をアラムートを中心とする組織として整備する一方、奪取あるいは新設した城砦の維持と領域の拡大、シャリーアの厳格な施行に努めた。セルジューク朝の中心地のひとつイスファハーン周辺ではアフマド・イブン・アッターシュ(先述のアブドゥルマリク・イブン・アッターシュの息子)が1100年、ゲルドクーフ城砦(英語版)(シャー・ディズ城砦)を落とし、アラムート周辺では1102年、配下のブズルグ・ウミードがアラムートの西方にあるランバサル城砦(英語版)を落としてアラムート地域の防衛を強化。クーヒスターン(英語版)[要リンク修正]でも教勢の拡大により、アラムート周辺につぐニザール派の拠点としての位置を確たるものとした。また1100年前後からハサニ・サッバーフはシリアにもダーイーを派遣している(シリアでのニザール派については後述)。 しかしマリク・シャー没後のセルジューク朝の混乱は1104年には一段落し、1106年のバルキヤールクの没後イラン方面のセルジューク朝権力はムハンマド・タパルに集約されることになった。ムハンマド・タパルはニザール派の一掃を期して反攻に転じた。1107年にシャー・ディズ城砦が陥落、ほかにもザーグロス山脈方面でいくつかの城砦が陥落した。またアラムート近辺のガズヴィーンの街でも争奪が繰り返されている。1115年ころからはセルジューク朝軍による大規模なアラムート城砦包囲戦が行われたが、1118年のムハンマド・タパルの死去によって包囲軍は瓦解、アラムートは窮地を脱した。こうしてハサニ・サッバーフはマリク・シャー、バルキヤールク、ムハンマド・タパルの三代にわたるセルジューク朝の包囲をことごとく退けたことで名声を博し、名実ともにニザール派第一の指導者として認められることになるが、イランでのニザール派の拡大も1110年前後には限界に達し、以降セルジューク朝との攻防は一進一退を繰り返す膠着状態となった。ハサニ・サッバーフは1124年6月に没した。 ハサニ・サッバーフはイマームのフッジャとしてニザール派を指導したとされる。フッジャとはアラビア語でシーア派の文脈では「証し」を意味する。ニザール派がイマームとするニザールは1098年までにカイロで没しているが、ニザール派では代わるイマームを立てることをせず、ニザールは行方不明ないし「隠れ」の状態に入ったものとして扱い、ハサニ・サッバーフはフッジャ、すなわちイマームと唯一意を通じることの出来るイマームの代理者であるとしたのである。実際、ニザール派鋳造貨幣は12世紀後半に至るまでニザールのイマーム名アル=ムスタファの名が刻まれている。同時にハサニ・サッバーフはアラムートに古今の図書を集めた図書館を設置、以降アラムートの落城まで多くの学者を引きつけた。 ハサニ・サッバーフのあとを継いだのが、ランバサル城砦を治めるブズルグ・ウミードら4人のダーイーであった。ブズルグ・ウミードは徐々に他を圧倒し、1138年の死まで単独の支配を確立した。ブズルグ・ウミードはハサニ・サッバーフの施策を継承し、セルジューク朝との一進一退を維持した。1129年にはスルタン・マフムードから停戦が提案されたがこれを拒絶。また1131年にはアリー朝のザイド派イマーム、アブー・ハーシム・ジュルジャーニーを捕らえて処刑している。1135年のアッバース朝カリフ・ムスタルシドの暗殺に関与したともされる。1138年2月9日、ブズルグ・ウミードは没し、息子ムハンマドが後を継いだ。以降、アラムートの指導者は代々ブズルグ・ウミードの子孫が継承する。第3代フッジャとなるヌールッディーン・ムハンマド(ペルシア語版)(ムハンマド1世)の時代には、アラムートによるニザール派全体の統治がほぼ確立され、ニザール派領域は安定した。このころまでにはバダフシャーン(アフガニスタン最北東部))のイスマーイール派もアラムートの下に入った模様である。各地のダーイーはアラムートの指示に完全に服従することになるが、一方で重大な事態が発生しない限り、その自治性は認められた。20年強にわたってニザール派を率いたムハンマド1世は1162年2月21日に没し、息子ハサン・ズィクリヒッサラーム(英語版)(ハサン2世)があとを継いだ。
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