ニザール派の制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:53 UTC 版)
前述の通り、アルグン・アカを首班とするイラン総督府と、バイジュ・ノヤン率いるイラン以西におけるモンゴル帝国の鎮戍軍である「タマ軍( لشكر تَما lashkar-i Tamā)」の活動によってモンゴル帝国はイランの地の主要な拠点は押さえていたものの、シーア派の一派、イスマーイール派(正確にはニザール派)の勢力が未だモンゴル軍に反抗を続けていた。「暗殺教団」とも呼ばれるニザール派はアラムートの城塞を中心とする難攻不落の山城群をアルボルズ山脈やイラン南東部のクヒスターンなどの山岳地域に築きそれらを根拠地としてセルジューク朝時代から活動を続けていた。一部はシリア地方にも展開しており十字軍にも恐れられたその暗殺技術によって周辺地域に絶大な影響力を誇っていた。チンギス・カンの時代にはニザール派第25代教主ジャラールッディーン・ハサン(英語版)(ハサン3世)がイラン高原にやって来たチンギス・カンに臣従を誓っていたものの、イラン支配の意図を明かにし始めたモンゴルとは次第に対立し始め、モンゴル軍の部将が暗殺される事件などにより両者の関係はさらに悪化。すでにグユクの時代からモンゴル軍によるニザール派の攻撃は計画されつつあった。1254年、モンゴル皇帝モンケの宮廷を訪れたギヨーム・ド・ルブルクは、カラコルムに滞在中にニザール派の刺客400人がモンケの命を狙って潜入したため、全市に戒厳令が敷かれたことを伝えている。 モンケに西アジア方面の経略を任されたフレグは1253年モンゴル高原を出発したものの、全軍は非常にゆっくりと行軍し1255年になってようやくサマルカンドに到着、その後キシュ(シャフリサブズ)でイラン総督アルグンの出迎えを受け、そこでようやくニザール派の攻撃を発表、イラン地方の諸勢力に参戦を求めた。しかし、この頃ニザール派第26代教主アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド3世)が信徒に殺されてしまい、その後長男ルクヌッディーン・フルシャー(英語版)が第27代教主を継ぐと状況は一変する。 父ムハンマド3世と違いフルシャーはモンゴル帝国と妥協点を見いだし和平を結ぼうと交渉する路線をとり、盛んにフレグに対して外交交渉を行った。しかしフレグはその巧みな外交手腕を発揮してフルシャーと駆け引きしつつ1256年ようやくアムダリヤ川を越えたモンゴル軍を動かしアラムートを中心とする山城群をじわじわと包囲させた。なおフルシャーはフレグと交渉を続けようと試みたが、フレグは遂にイマームおよびニザール派のモンゴルへの完全服従という無条件降伏を求める最後通牒を出し、本格的な攻勢にでた。モンゴル軍との戦闘でニザール派側が勝利する場面もあったが、弩砲(kamān-i gāv)などの強力な攻城兵器が威力を発揮して籠城側の継戦意欲を挫き、ついにフルシャーは停戦を請い出城を約束する旨をフレグ側に伝えた。フルシャーは身の安全を保障する(アマーン)勅令(ジャルリグ)を作成するよう要請して来たため、ジュヴァイニーがこれを起草した。フルシャーの出城をフィダーイー(刺客ともなる教団に献身する要員たち)たちが阻止するなどの動きがあったが、ヒジュラ暦654年ズ=ル=カアダ月1日(1256年11月27日)に当時籠城していたマイムーン・ディズにてフルシャーが降伏・出城した。これを機に諸城砦は次々にモンゴル軍に投降しニザール派は事実上その活動を終えた。 フルシャーは降服後にフレグに歓待され、勅書や牌子なども授けられてモンケのいるカラコルムに送られたが、モンケはカラコルムに到着した彼の謁見を許さずそのまま送り返し、フルシャーはモンケの命令によってアルタイ山脈の道中で護送の任に当たっていたモンゴル将兵らに絞殺されたという。カラコルムからの勅使によってフルシャー処刑の報告を受けたフレグは、カズヴィーンに留め置いたフルシャーの一門の者も全て殺害させた。
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